《屈折率》


晩秋の午後の日差しが、落ち葉を煌めかせます。
シーの吠える声が木霊します。

僅かな風が、落ち葉を揺らめかせます。
シーの声に共鳴するかのように…


七つの森のこつちのひとつが
水のなかよりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛の雲へ
陰気な郵便脚夫のやうに
         (またアラツデイン    洋燈とり)
急がなければならないのか


樹々が覆いかぶさるような一軒の三角屋根に淡いブルーのペンキで塗られた小さな木造建物…
少し濃いブルーの扉の右隣には、小さな木製の看板が掲げてあります。

「森の法律事務所」

こんな軽井沢の山奥に法律事務所?


屈折率の法則…
見えぬはずのものが見え
見えているものはしかし見えているところになく…
屈折率のなせるわざ
………

屈折率により
七つの森のこつちのひとつが
水のなかよりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
………

 
ピアノの音色が聴こえます。
どうやらこの三角屋根の淡いブルーの建物の中からです。
しかも懐かしい、儚く美しいあの曲のようです…

Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」
………


太陽の光で、中央だけが輝くゴールドのドアノブを引いて少し濃いブルーの扉を、静かに開けました。
秋の偏光が、部屋中に注ぎ込まれます。

ぴたりとピアノの音が止みました…
………


およそ10畳ほどの白い壁にフローリングの部屋です。
応接用のベージュのレザーソファとテーブルが中央に、左奥には事務用の焦げ茶色の机が置かれています。

そして…
なんと黒人のような縮れた坊主頭の女性が、右側の壁に置かれた焦げ茶色のアップライトピアノに座っていました。
とても驚いた表情です。
びくびくしています。
………

え???
「ちびくろサンボ」のサンボ少年?

日本人には思えないほど、焦げ茶色の肌の女性でした。
黒人のような縮れた髪と、おでこが異常に発達した大きな頭…
しかも背もかなり低そうです。
小学生ぐらいでしょうか…
しかし子供ではありません。
顔は、れっきとした大人の女性です。

………
すいません
こちら弁護士事務所ですか?
………

あ、あ
は、は、はい…

かすかな小さな声でした。
焦った女性は、すぐに下を向いてしまいます。

………
すみません
少しお聞きしたいことがあります
失礼ですが
あなたがここの弁護士さんですか?
………

い、い、いえ
ち、ち、ちがいます
………

女性はますます慌てて、小さな身体を沈めます。

………
ごめんなさい
驚かせるつもりでは…
では弁護士の先生はいらっしゃいますか?
………

い、い、いえ
い、い、いまは
お、お、おりません
………

女性の大きなおでこが、鍵盤に当たりボーンと音が鳴りました。

………
その時です。
部屋の奥の扉が開きました。
………
晩秋なのに、春の風が吹いたような気がしました。

………
すみません
申し訳ありません
私が代わりに
………

懐かしい声…

白いブラウスが、偏光で眩しく感じます。
黒く艶やかな長い髪に、銀縁メガネの細身の中年女性です。
………

申し訳ありません
ただ今
弁護士は不在です
………
本日ほ、どのようなご要件でしょうか?
………

黒い艶やかな長い髪に細身の銀縁メガネ、そして白いブラウス…
懐かしい声…
………

え???
またしても私は、目を疑いました。
………
その女性も、私の顔に驚いた様子です。

………
あなたは
もしかしたら
ナオミ先生?
………
小学校で担任の先生だった
ナオミ先生…
………

ユ、ユキヒロ君…
あなたはユキヒロ君ですね
………

銀縁メガネの奥の長い睫毛はそのままです。
儚い潤んだ瞳もそのままです…
………
懐かしい石鹸の匂いがします。
………