それから翌日、個室の病室に戻ることが出来ました。
会社には、社長にだけに腫瘍のことを伝え、入院するための有休をもらっていました。
しかし他の同僚には、一切事実を伝えていませんでした。
同情されたくなかったこともありましたが、1番は、私を毛嫌いしているある女性社員に知られたくなかったからでした。

ザマアミロ

きっとそんな言葉が発しられるはずだから。

普段その女性社員は、私とすれ違う時に、必ず鼻をつまみました。私の匂いを嗅ぎたくなかったからでしょう。あからさまにそうされると悲しくなりました。しかしそれは何度も繰り返され、手を振って匂いを消す動作までされました。


医師からは、病棟内を歩いて、体力の回復に努めるようにと、助言をもらっていました。
私は9階の長い直線の廊下を、タオルを首に巻いて何往復もしました。

最初の晩に泊まった病室や糖尿病患者の病室、ナースステーションの傍をゆっくり歩きました。
おそらく気持ちは清々しく、病気を克服する喜びに満ちていたと思います。

そして時間さえあれば「1Q84」に没頭しました。
同僚に何も伝えなかったのと、数少ない友人にも伝えていなかったので、見舞いに来てくれたのは、親戚の叔母さんぐらいでした。
ただ1人を除いては…



それは何年か前に、飲み屋で知り合った美沙という若い女性でした。
その美沙には、腫瘍が見つかり入院して手術をすることを、メールで伝えていました。
本当は、手術する前に来て励ましてくれることを期待していましたが、彼女は来てくれませんでした。

それでも普段通り毎日メールのやり取りをしていると、ようやく見舞いに来てくれることになりました。
そしてその日は、入院して初めての日曜日だったはずでした。
病院内で休患の日曜日を利用して、七夕まつりが行われた日だったからです

1階の広い待合室ホールを使って、何本かの短冊や七夕飾りを飾った笹が立てられ、何軒かの出店が開かれました。
病院の入院患者はもちろん、医師や看護婦など病院のスタッフも顔を見せていました。
そしてメインイベントは、5人ほどの若い看護婦によるミスコンテストでした。

1階待合室ホールの中央部分から2階へ連絡しているエスカレーターを、順番に降りて来る形でコンテストは行われました。
司会者の女性がマイクで、エントリー者の名前と所属の担当や簡単なプロフィールを紹介します。
すると七夕らしく浴衣に着飾った看護婦が、笑顔で手を振りながら、エスカレーターを降りて来ました。
集まった人達からは、大きな歓声や声援が送られ、熱気溢れる盛り上がりを見せていました。








そしてこのコンテストの最中に、美沙からメールが届いたのです。
私は病院の裏口まで、迎えに行きました。
彼女は、恥ずかしそうに現れました。
スラリとした脚に、大好きなデニムを履いていました。

久しぶり

あはは

今日は病院で、七夕まつりが行われているよ

なんかびっくり
あはは

彼女の特徴は、女の子にしては大袈裟な笑い方でした。
整った顔をしているのに、口を大きく開けて笑う表情は、どこか違和感がありました。

そして病院内で行われている七夕イベントに、とても驚いていました。
美沙とコンテストを見ながら、出店を巡り、焼きそばやたこ焼きを買いました。
コンテストが終わると、エレベーターに乗って、私の個室の病室まで案内しました。
窓側のソファに向かい合って腰を下ろし、出店で買った焼きそばなどを食べながら、入院生活の様子を話しました。

来てくれてありがとう

あはは
この焼きそば美味しいね

ENGIN持って来たよ
あとこの村上春樹の「1Q84」読んでたよ

面白いの?
ENGIN見せて

美沙は、毎月発行されるENGINを、私が会うたびに持参していたことから、いつの間にか彼女も愛読するようになっていました。
そしてその当時、私は2台の外車を所有していました。
1台は、メタリックブルーのMINIクーパーS。
そしてもう1台は、フランス車でやはりとてもきれいなブルーのルノーのカングーでした。

とくにカングーは毎日の通勤に使っていて、決して日本車では味わえない、あの路面を掻くように走りながらもソフトな足回りは、唯一無二のものでした。
1度乗ったら忘れられず、病みつきになるそんな車でした。

外見も、背が高いフォルムながら、フランス車らしくとても洗練されお洒落でした。
内装はそのまま鉄板がむき出しになっていて、運転席の上や両サイドにも収納スペースが設けられ、まるで旅客機の座席に腰掛けているようでした。

美沙にも、1度だけこのカングーに乗せたことがありました。
きれいなブルーとお洒落な外見、内装の凝りようにびっくりしていました。








美沙は、ページをめくりながら、いつものように大きな声で、独り言の感想を喋り始めました。

あはは
これなんかいい
これステキ

あのね
後ろの方に、フェラーリに乗っている女の人が、紹介されているんだけど
見てみて

うしろ?

そこに女の人が飼っている犬の写真もあるんだ

どこどこ?

これ?
あはは
可愛い

なんていう種類かわかる?

若くしてフェラーリを所有しているキャリアウーマンが、車の他に愛犬も紹介していました。
その頃の私は、まったく犬に関して知識がなくて、チワワやダックス、トイプードルにブルドッグぐらいしか名前がわかりませんでした。

あはは
私もわからない
でも可愛いね


数年後、私は父が亡くなり、家に1人残され、犬と暮らす決心をした時、兄の1人娘が大好きなシーズーにしようと、迷いなく思いました。

仙台市近郊の名取市にあるイオンショッピングプラザ内の、ペットプラスというお店に、兄たちが帰省した際、よく見に行きました。
兄の1人娘は、犬が大好きで小さい頃から犬が欲しいと言っていました。

とくにシーズーがお気に入りで、お店にシーズーがいようものなら、ずっとガラス越しに眺めていました。
犬に疎かった私も、いつしか感化されて、犬と暮らすことを決心した時も、まったく迷いなくシーズーのメスにしようと、決めていました。
そしてそのペットプラスのお店で、シーと出会うことになりました。


俺ももし1人になったら、犬でも飼おうかな

あはは
いいんじゃない
私はもういるけど

美沙は、離婚した母親と2人で、仙台市中心部の古いマンションで、暮らしていました。
おそらくペット禁止のマンションのはずですが、犬1匹と猫1匹を飼っていたはずです。

そして最近は、昼間の仕事の他に夜の仕事を始めていて、時々飲みに行くこともありました。

あはは

お店でも大きな声で笑う彼女は、美貌とともに目立っていました。