柑奈 さん、まいちゃん さん、レナ さん、コメントありがとうございます。
狂犬病のことは私も詳しくは知らないんですが。。。(∩∩*)ゞ
ここのところちょっと忙しくて、ペタ返しもほとんどできていない日が
続いていて申し訳なく思っています。
最近疲れがたまっているのか、つまらないこと考えてしまいます。
私の生き方が、家族に辛い思いをさせる結果になってしまったんじゃないかなんて。。。
もう30年以上前に、あるラジオ番組で放送してもらったカセットテープがあります。
公開するのはとても恥ずかしいのですが、何かの時にある友人に聞い
てもらったことがきっかけでたくさんの人たちに聞かれる羽目になって
しまったんですが、でも結構評判がよかったのでここに。。。(*^^*)
★
♪♪♪
今朝は祝日なので、いつもの通りの方が聞いていらっしゃらないかも
わからないのですが、いつもどおりお送りしたいと思います。
もし今、何かでくじけそうになっている人がいたら、
今朝はどうしても聞いていただきたいです。
“私は言語障害”というタイトルをつけて、二度にわたって封書で
お寄せくださった、33才のお父さんのドラマです。
♪♪♪
私は言語障害 part1
私がちょっとしたきっかけからどもるようになったのは、
小学校の2年生の頃でした。
ちょうど今、小学校2年生の息子が、
「お父さんはどうしていつも、アッ、アッ、アッ、てどもってしまうの?」
と聞くので、さて、どう答えようかと考えているうちに、
これを書いてみる気になりました。
♪♪
私のふるさとは能登。
村は学校から遠かったので、私たちは海岸線に沿って走る、
汽車に乗って通学したのでした。
あれは、3年生の頃だったと思うのですが、
その日は台風が来るというので、学校は早引けになり、汽車も運転
を
打ち切るというので、私たちは急いで駅
へ向かったのでした。
その日は切符を買わなければならなかったのですが、私はどうしても
切符を買うことができないのです。
自分が降りる、ふたつ向こうの駅 の名前が、どうしてもいえないのです。
横合いから声が飛び、腕が伸びて、人々はそれぞれに切符を買い、
やがて私はたった独りぼっちになり、
そうして汽車は出て行ってしまったのです。
まだ、どうするという知恵もなかったのか、
私は歩いて帰ることにしたのでした。
線路から砂浜へ降りて、息もつけないほどの風の中、前を見ても
振り返ってみても、ほえ狂う波ばかり。。。
私は泣きたいのを必死でこらえて歩くのでした。
歩いて、歩いて、歩いて。。。
そのうちに悲しい気持ちはどこかへ吹き飛んで、荒れ狂う浪の雄雄しさ、
吹きすさぶ風の凄まじさに、励まされる思いさえするのでした。
そして物語で読んだ、無人島で暮らすロビンソンクルーソーに憧れて、
口を利かなくてもいい世界、たった一人の世界を夢見るのでした。
けれど現実は。。。
学校では、解っていながら答えられなくて立たされたこと。
成績がいいと賞状がもらえるのですが、返事ができないために、
テストになると、わざと間違えた答えを書いたこと。
卒業式に返事ができなくて泣いたこと。。。
そして学校の行き返りには、まだ理性の少ない子供たちが私を
そんな毎日の中で、沈んだ気持ちで帰ってくる私を見て、
父は思うところがあったのでしょう。。
学校が引けると、私を畑や田んぼへ連れて行くのです。
そして自分の仕事を手伝わせながら、
「むかあし、毛利元就は。。。」とか、
「乃木将軍のお母さんは。。。」とか、自分が子供の頃に、学校で
習ったか本で読んだかした物語を話してくれるのでした。
畑から眺めた、日本海へ沈んでゆく真っ赤な夕日と、
汗の染みた土のにおいと共に、そうした、父の話してくれた物語の
ひとつひとつを、私は今も忘れてはいません。
悔しさや惨めさはともかく、息を殺して小さくなっていれば、時間が
なんとかしてくれた少年時代。
馬鹿らしくも情けない、けれども、自分では結構捨てたものではないと
思っている、私の人生がこうして始まったのでした。
私は言語障害 part2
誤解されることの多い毎日。。。
私は田舎の高校を卒業すると、東京のある中華料理店に
勤めました。
将来のことも考えてのことでしたが、
最初は出前から。
ところが、「お待ちどうさま!」
の一言がどうしても言えず、玄関のドアを開けることができないのです。
お店では電話や、お客の応対など、アルバイトの中学生でも
帰っていくお客さんの後姿に、黙って頭を下げる私を、店の同僚たちは、
「意味のないこと。」
と言って笑うのですがしかし、私はそれを自分の誠意と信じるより
仕方がなかったのです。
といって、外の世界が怖くて辞めることもできず、ただ必死で
しがみついているばかりの毎日でした。
電話や、日常の挨拶もしなくていい。。。
そんな世界があろうとは、とても思えなかったからです。
これが世の中なら、オレには生きてはいけない。。。
どうしようもない惨めさ悔しさに、やがてそう、思いつめて
しまったのです。
そしてある日の夜明け前、死ぬつもりで、そうっと店を
抜け出してしまったのでした。
そうして駅の近くまで来ますと、ある光景が目に留まったのです。
ひとりのルンペンが、レストランのゴミ箱から残飯をより分けて、
それで握り飯を作って食べているのでした。
穏やかな目をして、のどかな顔をして。
見栄も体裁もなく、ただ命あることだけを楽しんでいる。。。
そんなふうに私には思えたのです。
次の日、私は九州宮崎の郊外にある、尾鈴山へ登りました。
1000メートルほどの山ですが、店を飛び出してから、なにも
食べていないのでした。
思いつめていたせいか、ひもじさはそれほど感じなかったのですが、
疲れがひどくて這うようにして登りました。
これまで、積極的に努力したことのなかった自分。
せめてあそこまで。
あの頂まで。
なんど振り仰いでも同じところに見える頂上を睨んで、そう、自分を
励ましながら登るのでした。
ようやく上り詰めたのは、もう夕闇迫る頃でした。
なおも歩き続けているうち、やがて日はとっぷりと暮れて、
道に迷ってしまったのです。
山の冷気の中で、じっとしていることもできず歩き回るうち、
急に視界が開けて、木を切り出したところに出たのです。
足の下から聞こえる水の音に、夢中で顔をつけて水を飲みました。
そうして一息ついて、ふと顔をあげると、そこには、
やがて満月になろうとする月が、煌々と輝いているのでした。
胸のうちの苦しさを、誰に打ち明けることもできず、
ひとり、山の中をさまよう私には、優しく、暖かい月の光でした。
私は流れる涙をどうすることもできず、
ただただ、月に甘えて泣くのでした。
その後、再び東京へ帰って、ある小さな製本会社へ勤めましたが、
こんな世界もあったのか!という思いでした。
本を作るのが仕事ですから、ただ手さえ動かしていればできるのです。
時には惨めな思いをすることもありましたが、
とにかく仕事ができる!
ただそれだけで私はうれしかったのです。
そんなある日の夕方、仕事が終わってアパートへ帰ってみると、
一通の手紙が届いておりました。
鉛筆書きのそれは、母からのものでした。
長いあいだ農業をしていて、文字などめったに書かない母が、
鉛筆をなめなめ、書いたものでしょうか。
それには、
「どこにいてもいいから、住所だけは知らせてくれるように。。。」
といったことが書いてありました。
暮れてゆく窓のそばで、私はその手紙を手にしたまま、いつまでも
泣けて泣けて仕方がないのでした。
また、高校時代の恩師からも手紙をいただきました。
そこには、「人生とは人が生きると書く。」とありました。
そのほか、親戚や友達のおかげで、一人でないことのありがたさ、
生きていることの幸せを、しみじみとかみしめることがあったのです。
同じ悩みを持つ仲間たちや、妻のことなど、書きたいことはいっぱい
あるのですが、長くなりますからまたの機会にしましょう。
頑張っている人応援する為につくったぐるっぽです(=^▽^=)



