Dear Ryoko

Ryoko .... You'd said so.

My darling Akito plowing positively is a dazzling presence for you.

…No way !

It's me that it have been longing all the while.

I have attracted to you.

Cause of your strength, the strength of your mental.

And your straightforward personality.

If you seem me to have grown even a little, it's a sure thanks to you.

Only thing you'll have next to, just I become stronger with.

I believe so even now.

So ... so much ... to be... near.

I want you to be near me.

Always, all the way, be my side.

Can not live without you anymore, I seems so.

Sincerely Akito

ICTの発達は遠距離恋愛の意味合いを変えた。

LINE、ツイッター、Facebook、Skypeなどなど

いつでも彼の声を、言葉を、姿を目にすることができるようになった。

その反面、

電話のベルが鳴ると全部彼からの電話と思えたり、

街のショーウインドーで彼に絶対に合う服を見つけてうれしくなったり、

ただ声を聴きたいと思ったり、訳もなくそっと彼の名前をつぶやいたり、

そんなときめきを感じる機会が減ってきた。

でも、LINEなどでは彼の体温を直に感じることはできない。

本当は朝の「おはよう」や夜の「おやすみ」よりももっともっと言いたい言葉がある。

「すぐに会いたい。」

それは今も変わらない。

そして、これからも。

きっと。

学生が講師に尋ねたという。

「『I love you.』は日本語に訳するとどういう言葉になりますか?」と。

作家でもある講師はこう答えたという。

「月がきれいですね。」と。

かの作家に倣えば、

「Love is the one thing in your life.」は差し詰め、

「風が心地良いですね。」

とでも訳せようか。

琴奨菊関が新妻とのろけながら優勝の喜びを記者陣に語る姿を見ながら、そう思った。

泣きたいときあるなら傍にずっとずっといるよ

そうつぶやく君の瞳は少年だった

サンシャインの眩しさも

コーラルの輝きも

Jeanne d'Arcの情熱も

風はみんな受け止めてくれた

ときにはまっすぐに風をみつめたい

明日はもっと風を感じたい

そこで夢から覚めても。

くじけないでと背中を押してくれた声

私の名前を呼ぶ声が心に響いていた

自分に素直になりたいと

間違ってもチャンスをくれていた

ほっとする瞬間

うれしくて楽しくて幸せな気持ちになる予感

この思いを胸に刻み込んで。

無口な風を当たり屋と呼んでいた日々が誇りになるように。

風は恋をした

あなたは優しいひと

その優しさが風を独りにさせる

あなたに翻弄されても風は傍にいる

あしたは雪が降るのだろうか晴れるのだろうか

あなたは風に問いかける

でも風は無口

風はこの思いをあなたに伝えたくて

風はこの思いをあなたに気づいてもらいたくて

あなたの傍にいる

でも風は無口

たとえ世界があなたを見放しても

たとえ世界があなたに背を向けても

風はずっとずっとあなたの傍に寄り添い続ける

無口なままで

そこにあるもの。

サンセットを迎えても探し続けるもの。

銀色のロケット

見つけたらペンダントにしよう。

背伸びして手を伸ばして受け取ろう

空からの贈り物を。

あなたの傍にはふたりの熱々の未来を預かる天使

部屋には捨て猫

あなたの不器用な仕草を一番に見つけるのは私。

せつなくなる

さびしくなる

今夜までにみつけて・・・ね。

穏やかな小春日和の午後。

縁側で懐かしいアルバムを紐解く。

もうそこにはない時間、場所、人。

ただアルバムの中にだけ生き続けている時間、場所、人。

過去は確かにあった歴史。

それを振り返るのは簡単なこと。

でも、未来は今から始まる新たな物語。

おもいっきり空気を吸い込んで

そう、前を向いて歩きだそう。

あの青空にかかる虹の先を目指して。

こんなにも彼を思っているのにその思いが伝わらない。

どんなときでも、たとえケンカしているときでも二人でないといけないのに。

ホントは誰よりも彼のことを知っているのに。

ホントは誰よりも私のことを知っているのに。

ホントは誰よりも彼のことを分かっているのに。

ホントは誰よりも私のことを分かっているのに。

言葉で伝えられないなら、心とココロをつないで、こころの声に耳をそばだてなきゃいけないのに。

「ごめんね」

その一言がもどかしい。

いじめも体罰も厄介な問題である。

厄介なものにしている一つの原因は、ひとえに「正しい」いじめ、「正しい」体罰があるという都市伝説が、少なくない人によって

根強く信仰されていることにある。

客観的に絶対的に「正しい」ものが仮にあるとすれば、「正しい」いじめ・体罰は正当化される。

正当化された行為は容認され、さらには推奨されることすらある。そして、いじめ・体罰もその例外ではない。

したがって、いじめ・体罰の実行者は「正しい」という認識(あるいは信念)に基づいていることがあり得る。

しかし、果たして「客観的に絶対的に正しい」かどうかを、事前に明確に判断する方法があるだろうか。

慎重に時間をかけて判断する刑事裁判ですら冤罪事件が起きている。刑事裁判の中でも特に慎重に行われている死刑事件すら

冤罪事件は避けられていない。

全知全能の神のように全てを見通せる存在ならばいざ知らず、ただの人間が独りで「正しい」かどうかを事前に明確に判断する

ことは不可能に近い。したがって、「正しい」かどうかの自己判断には謙虚さを伴わなければならない。そして、その判断が

誤っていた場合の責任の負い方も考えておく必要があろう。

ところが、そのような覚悟のない者が、軽々にいじめや体罰を行っているのが現実である。

そこにいじめ・体罰問題の根の深さがある。

正当化できないいじめ・体罰は「正しさ」を欠く。そして、いじめ・体罰の正当化は不可能に近い。

結局、どのような理由をつけようとも、いじめ・体罰はやるべきではないのである。

無実の人物を誤って有罪にする裁判官は実にやっかいな存在である。

無実の人物本人の人生を台無しするだけではない。

その関係者である親族、友人、同僚、雇用主、同窓生、恩師、隣人etc.にも多大な迷惑をかける。

当然ながら、真犯人の処罰を求めてきた被害者やその遺族の激烈なる心痛は言うに及ばず。

さらには、事件とは何もゆかりもなく、事件発生当時に生まれてすらいない、遠く離れた地の中学生に

トラウマを植え付けるような「体罰を伴う『人権』教育」が実践される現象を引き起こすこともある。

ハロウィンというお祭り騒ぎの最中、他方では、かようなことがかつて行われていた歴史を知るものは

果たしてどのくらいいるのだろうか。

「体罰を伴う『人権』教育」とは、「教師」が「人権侵害」があったと判断したとき、教師の「独断と偏見」で

「犯人」と認定された生徒に対して、殴る、蹴る、押し倒す、平手打ちをする等の体罰を執行するものである。

刑事事件の被疑者よろしく「犯人」とされた生徒は、生徒指導室に監禁され、授業そっちのけで、立ち替わり

入れ替わり入ってくる教師の取り調べを延々と受け続けることを強要される。そして、他の生徒が見守る中で、

公開処刑よろしく「公開体罰」が執行されるのである。「犯人」とされた生徒は身も心もズタボロにされる。

うかつな発言で「人権侵害」の疑いを受けないよう、生徒たちは言論活動を萎縮するようになり、当たり障りのない

「きれいごと」の言葉ばかりを使うようになった。また、生徒同士が、ささいな言動の揚げ足を取って「人権侵害」の

レッテルをお互いに貼り合うような現象も起きた。

他方では、人権侵害の最たるものである「いじめ」と疑われかねない言動を誰もが避けるようになった。

そのため、表面上は「いじめ」が問題となることはほとんどなく、いじめ自殺の発生など考えられなかった。

むしろ「いじめた」と決めつけられた生徒が体罰を苦に自殺するのではないか、と危惧されるくらいであった。

ところが、十数年後、その中学校では、いじめを苦にした被害者生徒の自殺事件が起きた。

教師もいじめの一端を担っていたという。

裁判官の誤った冤罪判決が、遠く離れた地の縁もゆかりもない中学校に「体罰」と「いじめ」をもたらした。

彼らは既に鬼籍に入っているが、冷たい土の下でその結果を正視できているだろうか。