10月2日25〜27時に放送。radikoタイムフリーで 聞きました!

繰り返し聴きたくて、番組の音源を YouTubeやSpotifyで探したのですが 見つけることが 出来ませんでした。それでも、とても素晴らしい番組で 振り返れるようにしたいなと。

話し手は、55年前にオールナイトニッポン初代パーソナリティを務められた斎藤安弘(さいとうあんこう)さんに、現在「あなたとハッピー」などを担当されている垣花正(かきはなただし)さん。

斎藤さんが 垣花さんを「カッキーって呼んでもいい?」って言われた やりとりが 胸があたたかくなりました。

オールナイトニッポンを製作したのは、当時 編成部長だった 羽佐間重彰(はざましげあき)さん。

番組内では 2000年に収録された 羽佐間さんのインタビュー音源を聞くことができ、当時のラジオについて こう語られていました。

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1967年ですか?

客観的情勢として、媒体の変化っていうのがあった。テレビというものが 異様な発達をしたわけですね。

昭和34年、1959年に 天皇のご成婚の執権で テレビが200万台という 異常な売れ行きをしたんですね。

ホームラジオっていう、ラジオを みんな家族かこんで 聞いてた時代が、テレビに変わっちゃったんです。

それで。ラジオというものが ものすごく衰退して、私は そのころ編成で 企画を立ててたんだけど、30分のリクエスト番組で 5通のハガキしか来ないというくらい。

実に散々たる状態が続いていて、これでは やがてラジオはつぶれてしまうぞと。

そのとき有名な言葉が、俺の親分だった 石田さん(石田達郎さん)が「ラジオはつぶれるかもしれない。だけど最後につぶれような」という名言を吐いたんです。それで、頑張ろうと。

それからもうひとつ、昭和39年、1964年に 東京オリンピックがあって、カラーテレビが流行したんですよ。

それで、ラジオというものが トランジスタラジオ(それまでのものより 大幅に小型化・軽量化に成功したラジオ)というものが 開発されたんですね。トランジスタラジオによって、子供たち、若者たちが 個人の媒体を持つことができたという 客観的情勢がひとつ。

で、雑誌「ヘブンパンチ」が創刊されたのが 同じ昭和39年。つまり媒体が ターゲットによって 細分化されていくのね。

もうひとつ、大きな情景は、受験が非常に厳しくなってきた時代なんですよ。

戦後、団塊世代が生まれて、育った若者たちが、大学受験が非常に難しくなった客観情勢があって、テレビなんか見てると 親に「お前勉強しなさい」と。言われて 部屋に追い込まれちゃう。

で、子供がラジオを持ち込んで、受験勉強してるフリをして、その孤独を なぐさめるために ラジオが必要だった。

そういう情勢の中で、いくつかのラジオ番組が 若者向けで成功していった。

それ以前の夜の番組というと「20世紀のマイク」とか 硬派な番組が多かったんだけど、それを ガラッと変えたのが 昭和30年代~40年初頭です。

そういう情勢の中で、オールナイトニッポンを始めた。

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音源の後に「親分の口調すごくないですか」と 垣花正さん。

対して、斎藤安弘さんは「あの声で怒鳴られてごらんなさいな」と 親分こと 羽佐間さんのすごさと すごみに触れます。

続けて「当時としては ラジオは かなり苦しい状況で、オリンピックの3年後、大阪万博の3年前、その間に 誕生したんですね」と語る 斎藤さんに、「ビートルズ来日の翌年ですね」と 垣花さん。

お2方とも、こういった出来事を 反射的に時系列であげられるのが すごい。

つまり、オールナイトニッポンが生まれたとき、メディアの主流は ラジオからテレビに置き換わっていき、加えて 大御所の 大衆向け雑誌が創刊されたり、メディアの細分化にもさらされて、ラジオは かなりの苦境に立たされていたようです。

今のテレビが置かれている状況と似た、もしかすると さらに圧倒的な逆境にあったように感じます。

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続けて、オールナイトニッポンが誕生するときについての 羽佐間重彰さんの インタビュー音源も放送されました。

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ニッポン放送は 24時間放送をはじめた最初だったの。ちょうど昭和34年に はじめたんですよ。

ただし、経営が非常に難しいからという理由で 24時から 朝の5時までを 当時の経営者は 別会社組織にしたのかね。

その5時間というものは、営業も、制作も、編成も、すべて渡してしまうと。一種の委託事業かな。営業も、番組も、全部 勝手にしちゃえと。

勝手にするから、どうしても営業が優先になって、お金が入ってくる番組だと がんの治療の番組から 宗教の番組から みんな入ってきちゃうわけだよ。

すると、これは とても いまの若者には向かないと。いうことで これを変えようと思うわけだ。

ところが その会社をつぶさなきゃいかんわ、34人の従業員をどうするかって問題があったんだけど、このままでは ニッポン放送の若者に対する イメージが落ちちゃうと。

私は当時編成部長だったんだけど、これでは どうしても駄目だと。ということで、夜中の時間を 私の編成権に置いてくれ、ということを 上司である編成局長に 申し上げたんですよ。

これはね、よく覚えておいてください。
「お前は部長なんだろ」と。「部長なら自分の好きなようにやったらどうだ」と言われた。これはね、今でも一生忘れられないセリフで。

「だけど、深夜放送は会社がありますよ」って言ったら、「それは俺がしますよ」と。こういう、上司の決断というか、そういうものがなかったら この番組はできなかった。

上司の権限の委譲って 言葉はいうけれども、それだけの権限を委譲されると 人間ははりきるもんだよな。

ニッポン放送っていうのは、ラジオか、日本テレビがあるから 非常に混同するんだよな。だから、すべてに TBSもあり、文化放送もあるから、なんか”ニッポン”って名前を浸透させようと思って「とにかくニッポンをつけよう」と。

だから、「おはよう日本(1993年~)」って いまでもNHKがやってるけど、朝の番組は「お早ようニッポン」、午後の番組は「歌謡曲ニッポン」とかね、ぜんぶニッポンってつけたの。

で、ニッポンっていう名前を浸透させるために「オールナイトニッポン」って名前にしまして。そうやって 自分でタイトルをつけました。

それが、そういう客観情勢の中でできた、この番組であります。

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また、番組開始当時は、全国ネットではなく 東京のみでの放送で、遠い地方では どうしてもノイズ越しになってしまったそう。

それでも鹿児島や北海道から ハガキが届くことがあり、嬉しくて そればかり読んでいると 上司に「この番組は東京単なんだから、東京を中心に読め」と怒られたこともあったと 斎藤安弘さんが 当時を振り返ります。


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続いて、各曜日の初代パーソナリティ、糸井五郎さん、斎藤安弘さん、高岡尞一郎さん、今仁哲夫さん、常木建男さん、高崎一郎さんが どのようにして選ばれたかについて、羽佐間さんのインタビュー。

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そのころ製作費が削減されていたし、それからもうひとつは 営業に優先されては 困るんで、完全編成主体で 行きたいと。

だから、製作費は そんなにかけられない、という客観的情勢があって、それで、これは 人に相談してもダメだってなって、ある程度 独断で決めましたね。

それで、当時アナウンサーが喋っているのも 少なかったんだけど、アナウンサーって言うのは 無個性だから、そのときに「パーソナリティー」って ネーミングをしたんですよ。

これは アメリカで使ってた言葉だけど、それを持ってきて パーソナリティーということで、アナウンサーと ディレクターと、喋れる人間を起用したと。

いちばん重要なことは 当時流行していた 男と女の会話を やめさせたんだよね。つまりその、受験生は孤独でしょ。孤独で聴いている人間が、向こう側にね、男と女が じゃれてるとね、イライラしちゃうんだよ、嫉妬しちゃうんだよ(笑)

だから絶対アシスタント置いちゃいかんと。副調(サブスタジオ)も ひとりしか置いちゃいかんと。つまり、喋り手も 孤独に追い込もうと。孤独に追い込むことによって、直に聴取者に向き合う、という姿勢を作ってくれ、ということにしましてね。

だからそのときからだよ、お便りだけが頼りってのは そのとき始まったわけだよ。それがなかったら 何にもないんだから。中身のそんなある人間じゃないんだから(笑)

…でまあ 失敗したというかね。はじめは 陰気な人間と 陽気な人間と、隠と陽と両方おいたんだけど、やっぱり圧倒的に 陽気な人間に アンケートが多く集まりましたね。

それで目立つために、イラストをつくって、ものすごく手間をかけた 応募ハガキが来るようになって、それからあとは、ディレクターたちが それでもって「パンフレット作りたい」「本を作りたい」と言い出したのであります。

つまり、あるところまでの路線を敷いたら、それ以降は 現場の人間のほうが 直に聴取者と接しているから、そっちを優先するのが 正しかったんじゃないか、というふうに 思ってます。

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毒の効いた節もありますが、信頼と愛情があったからこそに 聞こえました。

「受験生に向き合え。受験生に語りかけろ。パーソナリティも孤独になれ。そういう環境で やってたんですね」と 垣花正さん。

そして、いまでこそ 深夜ラジオ=下ネタ解禁みたいなイメージですが、このころ「下ネタは無しな」ということだったそう。

「下ネタで勝負するようになったのは、あのねのねと、鶴光さん(笑)」と 斎藤安弘さんは振り返ります。

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安弘さんは 他の初代パーソナリティの方々について、こう語りました。

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「糸井五郎さん。カッコよかったんです。ミスターダンディでね。いつもスーツにネクタイ。どちらかというと茶系色のスーツに、同系色のネクタイして。左利きなんですよ。ジェイファーの万年筆使って書いて。で、タバコは ゲルベゾルテとか、キャメルか。スタイルの確立した方でした」

「高岡尞一郎さん。この方もね、ワイシャツは すべて銀座のシャツ屋さんのオーダーメイド。スーツの裏側の 裏地の間に 馬の毛を入れて、それでカップクをよく見させようという(笑) ミスターダンディ」

「今仁哲夫さんですけれど、今仁さんがいたからこそ、オールナイトニッポンは あんなにパワーを持つことができたんじゃないか、というような人」

「常木建男さんという方は、ニッポン放送一期生のアナウンサーで、とても厳しい方でした」

「高崎一郎さんはね、おひとりだけエコーかけて、「奥様、お嬢さま泣いて喜ぶ、高崎一郎です♪」って こういう感じで」

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アナウンサーというと ご本人のお名前という固有名詞より、自分の主観に邪魔されずに、事実を正確に伝えてくれる職業という 印象の言葉なのですが、現在のように ひとりひとりの人間味を強く感じることができるようになったのは、オールナイトニッポンからだったのかもしれませんね。

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そして、テーマ曲「ビタースイートサンバ」に、「あめんぼうとバラ(ハーブ・アルバート)」という 他の候補曲があったこと。

「オラは死んじまっただ〜♪」という 多くの方が聞いたことのあるメロディが「帰って来た酔っ払い」という楽曲のもので、オールナイトニッポンが この曲を 面白がって 何度も何度も放送したことで 人気が広まったことなど、さまざまな ひみつ話も聞けました。

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羽佐間重彰さんは 番組を列車にたとえて「列車は 良い列車という箱があれば、運転手や お客さんを変えながら、ずっと走り続ける」と語られたそうです。

オールナイトニッポンが、ひとりぼっちの人に寄り添う優しさから生まれた番組だったのを知れたのは とても良かった。

いままでも これからも、孤独を抱えてる人、色々な日々を生きる人たちを、少しでも 笑顔になれる明日に乗せていってくれる 番組として、つづき続けてくれたらいいですね。

素敵な番組に感謝です。

お付き合いありがとうございましたニコニコ