天武天皇は、天智天皇亡き後、壬申の乱で大友皇子(天智天皇の子)に勝利し、天皇に即位。太政大臣や左大臣右大臣は置かず、有力豪族勢力を排除し、天皇に権力を集中した。


その天武天皇崩御の後は、天武天皇の妻である持統天皇が後を継ぐ。ちなみに持統天皇の父は天智天皇である。自分の息子である草壁皇子の擁立を図っていく。草壁皇子の弟の、大津皇子の謀反計画を防ぎ、大津皇子は自害という結果に終わる。終わらせた?。しかしその後、草壁皇子が病死してしまう。持統天皇の頭の中には、いかに直系の孫の軽皇子(かるのおうじ、後の文武天皇)を天皇にするかということに重きが置かれていたことだろう。


持統天皇の行ったことには以下がある。とはいえ、天武天皇が行ってそれを引き継いだという面もある。


飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)制定。

これは日本史上初の体系的な律令法と考えられているが、現存したものはない。


藤原京の造営。新しい京の建設は天武天皇の念願であり、既に着手されていたとも、持統天皇が開始したとも言われる。


第1回神宮式年遷宮。伊勢神宮の式年遷宮。


庚寅の造籍。戸籍を作成した。


柿本人麻呂を保護した。柿本人麻呂に天皇を賛仰する歌を作らせた。


大和国の薬師寺を完成させた。これは天武天皇が生前に持統天皇の病気平癒を祈願して造営を始めた。


軽皇子に譲位し、史上初の太上天皇(上皇)になった。


大宝律令の編纂。制定は文武天皇の時代。大宝律令の編纂には藤原不比等が活躍。藤原家は、壬申の乱で、大友王子(天智天皇直系)に組みしたが当時幼かった不比等は罰を免れる。自身も天智天皇の娘である持統天皇は、藤原不比等を重用した。








公園になっていて家族がキャッチボールしてました。ある夫婦が作った公園、いや宮跡。


藤原宮跡

奈良県橿原市醍醐町