南大門は建設中。23年2月時点。
多賀城碑は日本三古碑の一つ。多賀城の設置(724年)、修理(762年)、修理の年に石碑が設置された等刻まれている。
多くの人たちがここを歩いた。坂上田村麻呂、平将門、藤原経清、源頼義、源義家、源頼朝、北条時政、北条義時、北畠顕家(南北朝時代の武将、足利尊氏に勝った。多賀城を拠点とした。)(平将門は多分、北条時政、北条義時は源頼朝に付いて奥州征伐に来た。源頼朝は多賀城に来ているので、多分来ている)。
宝亀11年(780年)朝廷に帰順していた蝦夷によって多賀城鎮守府は焼失させられる。伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の乱である。(伊治呰麻呂の名が歴史に現れるのは、宝亀9年(778年)。その前年に行われた海道・山道蝦夷の征討に際して戦功を賞し、外従五位下の位階が授けられた)。伊治呰麻呂が、朝廷側の紀広純(きのひろずみ)と道嶋大楯(みちしまのおおたて)を殺害、伊治城や多賀城を攻め落とした。呰麻呂は多賀城を占拠することはせず、城から武器や兵糧を奪い取り、城に火をつけた。呰麻呂が反乱を起こした理由は、差別があったとも、同族を攻めるのを拒否したからとも、言われている。
大和朝廷にとってこの反乱は、東北支配の成果を文字通り灰燼に帰すものであった。大和朝廷は伊治呰麻呂を国家転覆の罪にあたるとした。しかし、呰麻呂の名はその後の歴史に現れることはなく、その行方は杳として知れない。反乱の翌年には、桓武天皇が即位。桓武天皇の声明の中には、なぜか伊治呰麻呂の名はない。しかしながら、この反乱を契機として陸奥国の動乱は深まっていき、政府から征夷軍が繰り返し派遣される時代が到来することになる。桓武天皇の時代には、伊治呰麻呂のように蝦夷でありながら朝廷側の軍に参加するということは記録に残っていない。伊治呰麻呂の乱によって時代は転換点を迎え、蝦夷との共存から、全面対決する局面へ移り変わってゆく。
すぐ近くには、東北歴史博物館もあるので、この辺りの時代の解説もありますし、中尊寺の柱のレプリカ(感動)もあるので、是非ご一緒に立ち寄っていただきたいと思います。
多賀城跡
宮城県多賀城市市川
東北歴史博物館
宮城県多賀城市高崎1-22-1