日時:2024年7月7日(日)14:00~
会場:文京シビックホール大ホール
指揮:河上隆介
演奏:SEVEN STAR ORCHESTA(セブンスターオーケストラ)
曲目:
グリンカ:歌劇「ルスランとリュミドラ」序曲
ラフマニノフ:交響的舞曲
ムソグルスキー(ラヴエル編曲):組曲「展覧会の絵」
感想:
文京シビックホールで、アマチュアの無料コンサートがあったので訪れてきた。
予てよりこのホールに行ってみたかったのだが、限られた鑑賞行動の中ではなかなか機会がなかったのだが、申し訳ないが今回無料に引かれていくことにした。
それにしてもちょっと異色の団体名でたばこの銘柄のような名前。
母体や背景など設立経緯はよくわからなかったが、交響曲の7番ばかりを取り上げる企画的オーケストラということで、時期も毎年7月に定期公演を行っており今回が15回目で、「記念」と冠されていた。
指揮者にアンタル・ドラティ国際指揮者コンクール2位の河上隆介さんを迎えて行われた。
河上さんは、勲章の割にはあまり東京で名前を見かける機会は多くなく、国際コンクールでの成績は必ずしも活躍の保証にはならないのかなという印象だ。
そんな公演だが、定刻より10分遅れの開演となり、今回オケのメンバーが入場して来てちょっと驚いた。
女性のステージ衣装がソリストの着るようなカラードレスで色とりどりなのである。
男性の方はさすがにカラードレスではなかったが、パーティスーツ的な服が多く、いわゆるオケのステージ衣装ではない。
しかもメンバー全体も20代30代が中心の若手で、さながらパーティコンサートのような雰囲気である。
そういえば客席の両脇の一角にデジタルカメラが10台ずつくらい備え付けられており、ひょっとするとパパママが記念に残す金持ち子息たちの社交コンサートなのかとも感じた。
まあそんな状況はともかく、私は音楽に向き合うだけである。
一曲目はグリンカのルスランとリュミドラで皮きりの定番の曲。
速いテンポでスタートするが、テンポに置いて行かれそうになった金管がちょっと乱れる。
楽器間の音量的バランスはどうなのかなど時々粗はあるが、全体としてはそれなりに流れ、弦もまとまりはある。
テンポ設定について行くのがやっとの奏者がいる感じでバランスを崩しそうにはなったが、なんとか無事に終わる。
続いてラフマニノフのシンフォニックダンス(交響的舞曲)。
冒頭の弦の刻みの厚みはあるが、エッジが弱くダンスのリズムにはちょっと物足りない印象。
ワンフレーズごとに聴けば正しくは弾いている印象はあるだが、全体の表情付けがイマイチ弱くで、曲の表情全体が掴みづらい演奏になる。
ただストリングスは揃っていてそれなりに美しく響くので、アマ的な安っぽさにはならない。
木管もチラチラと乱れが見えなくはないが、概ね安定はしていた。
ただやはりリズム感の問題で、この曲が舞曲として躍動感的な面で魅力的に聴こえる演奏になっていたかと言えば少し物足りなさを感じた。
続く第2楽章は全体としてはそれなりの仕上がりにはなっていたが、細かいところの曲のメリハリというか、弦の刻みとオーボエの受け渡しなどフレーズの対比のところでスムーズさに欠けるなど、リズム感の面でもう一つ上が欲しかったなという印象。
続く第3楽章も、どこかもっさりとした重さを感じ、躍動的な推進力が欲しかったところ。
クライマックス的な部分でも迫力ある音が引き出されてはいたが、舞曲としてのキレは弱く少し重い。
フィナーレもしっかりした演奏で迫力ある音にはなっていたが、キレの面で申し訳ないがそれほどの満足感には至らなかった。
そして後半は展覧会の絵。
冒頭のトランペットは、比較的淡々と音程を追った演奏で曲がスタートする。
金管全体が揃っていないかなと感じる面もあったが、リズムを保って最初のプロムナードを終える。
グノームのところは無難に乗り切るが、第2プロムナードは少し不安定になる。
続く古城のアルトサックスのソロは堂々として雰囲気を出しており中々見事だった。
実はこの曲のモチーフになった絵は、この日の1曲目のルスランとリュミドラの場面を描いたものとされており、もしかするとその意味でこのプログラム構成になったのか?
3つ目のプロムナードのトランペットもやや不安定だったが、続く弦は綺麗に響く。
チュルリーの庭は少々華やかさに欠けたかなという印象で、続く牛車(ビドロ)は滑らかに演奏してしまったが、このモチーフとされた絵は実はポーランドの抑圧された民衆の姿を描いたものとされており、その重さを表すメリハリ効果の面でどうなのかなという疑問を持った。
4つ目のプロムナード、ひなの踊り、サムエルゴールデンベルク、リモージュの市場と順調に音楽は流れ、カタコンベのところで金管が少し危うくなるが何とか無難に乗り切る。
バーバヤガーのところでは、「踊る大走査線」かというくらいスリリングな演奏になるが、演奏の善し悪しより、このラヴェル版の編曲のあまり好かないところというか、作曲家の意図と離れてしまったような印象で個人的には好まない。
モチーフとなるガルトマンの絵は妖怪をあしらった時計の絵であるようで、妖怪の直接の怖さと言うより、ガルトマンの時間を奪っていった病魔の怖さを思い出して書かれた曲のような気がしており、現在の演奏スタイルで良いのかについて疑問を感じている。
そして最後の「キーウの大門」にもその不満は続く。
まず日本では「キエフの大門」という名称が定着してしまっていたが、これはロシア語であり、現地のウクライナの呼び名はキーウであり、今後はそちらで定着させていくべきであろう。(プログラムはキエフのままだった)
話をラヴェル版の件に戻すが、ラヴェルの管弦楽版ではチューブベルを添える華々しいフィナーレとなるが、これがどうも好きではない。
原典のピアノ版と比べ、そもそもの作曲動機である亡くなった画家への回想という作曲家自身の「想い」の要素がほとんど失われ、華々しさが優先された編曲になっている。
今回の指揮者もやはりそういった作曲家自身の葬送の悲しみの想いというより、華々しい効果を優先した演奏をしており、そこには残念さを感じた。
まあこれは演奏の善し悪しとは直接関係ないところではあるが、華々しさだけを追求する演奏にはいつも白けてしまうのである。
ならばラヴェル版は聴きに来るなと言われそうだが、ちゃんと原曲の意図への配慮をしたラヴェル版も聴いたことがあるだけに、僅かな望みを持ってたまに訪れてしまうのであるがほとんど裏切られている。
まあ今回も例に洩れなかったのだが、演奏側には罪はなく、指揮者にちょっと意識してほしいというだけである。