人は必ず死ぬ | 萌え燃え日常戦記

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時に萌え、時に滾り、時に凹む柊の日常をつづります

今日は珍しく手を切った。

っていうか、包丁がささった。って言っても……


切った先の玉ねぎが転がって、包丁の柄に当たって、包丁がぐるりんと半回転して落ちたんですが、その途中に私の手があった、と。

刺さったのは切っ先ではなく、手元の90度のところだし、一瞬血が出たけど、ちゃんと赤い血だったしすぐ止まったのでノープロブレムさ♪。


さて、タイトルです。



大野病院事件のニュースというか、論説というか、そんなものを見ていて、ふと思ったこと。

そんなこと言えば、当たり前だよ、と思うかもしれない。

そのくらい、誰でもわかっていることなのに、意外に日常からは忘れ去られていることであるかも知れない。


昔お産っていうのは、とても大変なことだった。

お産で亡くなる方というのは、普通に当たり前だった。

私の親友の一人は、お産に伴うくも膜下出血でそのまま命を落とした。


新しい命を生み出すということは、それでも意味があることだと思ったからこそ、彼女たちは産んで、そして死んでいったのだとそう理解している。


今回の事件は「お産というものにはリスクを伴う」という今更ながらに新しい事実を突きつけた面があるのかな、と。


当たり前の事実なんだけど、医療の進歩によって、お産で死ぬ人が少なくなって、誰もがお産というのはリスクがないと思ってしまっていた面はないのかな、と。

医師が最大限の努力をしても、それでも人の死というものは逃れられない。

手術を任せるというのは、その医師の診断を信じるということであって、どんなに立派で有能な医師であっても、人を死なせてしまうというのはどうしてもあるわけで。


なくなった方は気の毒だと思う。でも、全体的な裁判に至るまでの流れとか報道とかを見てると、あれ?と思うことはいっぱいあった。

出産って言うのは、リスクですよ、と。命を落とすこともあるんですよ、と。

そんな当たり前のことを、なんだかあんまり声高に言う人がいないなって。

健康なお産でも、そのリスクはある。ましてや、通常分娩できないってことは、そのリスクに賭けるっていうことじゃなかったのかな?


自分だけはそんなことないと思ってたということはないのかな、と。

生きるか死ぬかの現場で、医師の判断に任せます、死んでも文句は言いませんという念書を書かなきゃ、手術もしてもらえない時代が来たら、それはそれでイヤだな、と。


例えば今これを読んでくれてるあなたと、この記事を書いている私。

どちらかは先に死にます。

それは明日かも知れないし、一年後かも知れないし、10年後かも知れない。

でも確実にその日は訪れる。知るか知らないかは別として。


そのことの意味を、少し考えてもいいかなと思ったのです。