普段滅多にNHKスペシャルは見ないのですが、今日はたまたま惹かれるものがあり、ずっと見てました。
(と言っても、食事を作りながら、なのですが……汗)
タイトルは、テレビを見ている途中で、あっ、記事を書こうと思って調べたので、最初は長崎だと思わず、広島かと思って見ていたんです。
昨日がヒロシマ。明後日がナガサキです。
こうやってカタカナで書くと、「それ」をあらわすって、ご存知でしたか?
「被爆地」です。
ヒロシマの原爆ドームは世界遺産だと、ご存知でしたか?
今私が書いているテキストなんかもそうなんだけど、私が思ったこと、経験の中で考えたこと、そういうことを遺しておくのもブログ――ウェブログとしてもアリかな、と。
昨日(6日)の記事にも少し書いたのですが、私の母は、被爆二世で原爆手帳を持っています。
と言っても……実は彼女と私には血のつながりはありません。
ちょっと自分語りっぽくなりますが、我が家の話を少しだけ。
我が家はいわゆるマスオさん家庭でした。
そして一緒に暮らしていた祖母は、アメリカ移民の子供でした。
生まれはアメリカのカリフォルニア。そして16だか17だかの時に、母を含む家族は帰国しました。
新天地で挫折ってやつです。
(蛇足ですが、一族、ではなかったらしい。母の家族だけが帰国したみたいで、後に残った方はカリフォルニアでスーパーマーケットを始めて、そこそこの企業にはなったらしいです。フレスノという町で、一番大きなスーパーマーケットになった、というようなことを聞いた覚えがあります)
で、その後、祖父と結婚した祖母は、仕事を辞めませんでした。
今で言う、キャリアウーマンです。
ここがNHKスペシャルに繋がります。
祖母は、英語が出来るため、通訳のような仕事をしていた、と言います。ヒロシマの比治山にあるABCCという所で働いていました。
ABCCをご存じない方は、こちらの記事 をご覧ください。
たまたま検索したら一番に当たっただけですが、祖母が一番可愛がっていた(と親戚の誰もから言われる)私にすら、どんな仕事をしていた、ということをまったく喋らなかった理由が、少し分かるような気がします。
彼女は私が小学生になる頃、ABCCを退職し、小学校6年の夏には他界しました。
逆算すると、定年より少し早い退職だった気がします。
ちょうど父が議員になった頃ですので、母に代わり、自分が孫たちの世話をしようという気持ちがあったのかもしれません。
ABCCの経験を、私にはほとんど話してくれなかった祖母ですが、両親から上記の記事のような状況があったこと、そして……ABCCのことを「被爆者をモルモット扱いする」施設だと、そのように言う人がいたから、祖母は自分の仕事に誇りを持っていたけれど、あまり他人には言いたがらなかった、と、……たぶん母から(もしかしたら父から)聞いた覚えがあります。
そして、その母も祖母に遅れること1年、他界しました。
唯一の遺言めいたことと言えば、「おねえちゃんとして、弟二人をしっかり育ててね」と「新しいお母さんと仲良くしてね」でした。
もちろん、その時点で次の母の存在があった(すなわち父親が浮気をしていたとかそういうこと)ではありません。
が、父が父の仕事(議員)をする以上、父も、そして周りの人間も、私たち姉弟も「母親」という存在を必要とするだろうという推測に基づく悲痛な遺言でした。
今でも、そういうところだけは、母に似たくないと思います。残念ながら、似て来ている気もしますが。
少し脱線しました。
その後、父が再婚したのが、私がこのブログで書いている「母」すなわち継母です。
今ではもう、実母より継母の方を「母」と呼んでいる時間が長くなってしまいました。
母と祖母、そして父(明石出身です)は被爆していません。が、継母は原爆投下の頃、おそらくは祖母のおなかにいたんじゃないかと思います。
(誕生日から推測するに、です。なので、二世ではなく胎内被爆という方が正しいかもしれません。)
父は、そんな祖母と実母、それから継母と暮らしつつ、核兵器反対運動にずっと携わっていました。
某野党の更に左翼の協会派(というらしい。こういう話を父とすることは、とうとうありませんでした。今の父は脳が少し壊れているので、この先これ以上することもないでしょう)に所属していたそうです。
ただ私は、毎年、夏が近づくにつれ、反核そしてヒロシマという言葉が、父の出していたミニコミのような新聞に書かれていたことを、はっきりと覚えています。
だから……8月6日は私にとって特別な日なのです。
ヒロシマに生まれ育った人の、少なくない人が、両親、祖父母とたどれば、私のようなかかわりを何らかの形で持っているんじゃないかと思います。
今日のNHKスペシャルで、私はABCCのことをもう少し知りたくなりました。
祖母が60近くまでキャリアウーマンとして働いていた場所。どんな葛藤があったのだろうかと。
可愛がっていた孫娘にも言えない(それは心理的なものかもしれないし、当時の私はせいぜい小学校の低学年までですから(私が小学校の4年生だったときに発病してからは、ほとんど言葉を喋れませんでした)難しくて出来なかったのかも知れません。
彼女が生きていれば、私はどんな話を聞けたのだろうと。
娘婿である父には、もしかしたら何かを話していたのかもしれない。でも、継母と再婚してからは、父との間で実母(とそして祖父母)の話はなんとなくタブーでした。実母の残した本(それは日記を書籍化したもので、香典返しの代わりに自費出版したものです)にも、実母自身の話や体験は数多く残っていますが、祖母の人生や考えについてはほとんど書かれていませんでした。
そして上記した事情により、父はもう、私に何も語ることはないでしょう。
今となっては全てが推測です。
でも、彼女の基本的生き方のようなものが、ときどきふっと、私の中に残ってるんだなぁと思うことがあります。
たとえばおしゃれということに関しての考え方とか。年の重ね方についてとか。
はっきりと聞いたことじゃない。でも二つあって、どっちかを選ぶ時、なんでこっちを選んだのだろうと自問した時に祖母のことをふと思い出したりするのは、多分彼女の影響だと思うのです。
そして、アメリカに残った祖母の親族は、時々我が家に荷物を送ってくれました。
当時はまだまだ珍しい、アメリカンな食材の数々(調味料や缶詰、お菓子など)でした。若い頃からそういう味覚に抵抗がなく、むしろ親しんで育つことが出来たことは、今の仕事(というか、社会人になってからのずっと)に多大な影響を与えています。
卑屈になるでなく、見下すでなく「舶来品」と付き合えること。
それからキャリアウーマンとして稼いできた彼女と、料理の先生をしていた実母が私に教えてくれた「味覚」「おいしいもの」「食文化」「美意識」
今となっては祖母と実母が何を考え、どのように生きていたかを知るすべは、もはやありませんが、私の中に脈々と伝わっている(であろう、もしくは気がする)この感覚を、大事にしたいと思います。