カーニバル的なアレ | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

カーニバル的なアレ

大江健三郎さんの本のなかで、なんだったか、建築家原広司さんの「集落の教え100」という本から引用しながら、カーニバルについて書いているところがあった。

そこには確か、カーニバルは見るものと見られるもの、という区別はなくなり、聖を俗へと降ろし、混沌の中で再生の芽を生む、というようなことが書いてあったと思う(うろ覚えで大変申し訳ないことだけども)。

要するにそこには「見る見られるの境界の消滅」と「地位の転換」と「混沌のもとでのエントロピー最大化」と「死と再生」みたいなことがカーニバルという言葉に託されて書かれているのかもしれないけど、おそらくいま、カンパニーとしてはミュージカルという名がつきながらも、そう行った方向へと、ミュージカルそのもの自体から「ミュージカル」という仕掛けを通して何かに至るような、というかそこに至るためのフィールド、を創ることを表現とすることにシフトしているのだと思う。

演技に加えて歌やダンスも用いて、ストーリーテリングをエンタテイメントやアートにまで押し上げたミュージカルを、舞台の由来が持つ神事や祭事の方向に、ある意味で回帰というか、その二つのブレンドというか、そういう方向にカンパニーは向かっているのではと考える。

だから前者をミュージカルの定義として深く愛している方々の中には、我々がいま向かっている方向に強く違和感やアレルギーを感じる方がいるのも無理もないと思う。

というのは、後者を目指すに当たり、さまざまと試みていることが入ってきているからだ。


あ、重ね重ね、ここに書いていることはカンパニーの公意見でなく、極めて私見なのであしからず。