掌の中の宇宙〜フラクタルであるということ〜
デザインでいえば有名な話ですが、シャボンのポスターは日本を代表するデザイナー、佐藤晃一さんが造ってくださっていて、そのクオリティの高さ故にMOMAのパーマネントコレクションとして収蔵されているという、とんでもないポスターなのです。
僕は佐藤晃一さんのポスターが大好きでして、グラデーションと余白の使い方が見事で、どのデザインも光と余韻と静謐さがあるからです。うちの作品は多義的なものが多いですから、写実よりもこういった抽象的な意味合いを持つデザインの方が、包括力があって合うだろうなあ、と思います。
カンパニーが経済的に潤ったらまたデザインしてもらいたいものです。
さて、このポスターのテーマは「掌の中の宇宙」です。個人という無限小の中にも、宇宙という無限大が含まれているというテーマ。
荒川弘の「鋼の錬金術師」にも『一は全、全は一』という言葉がありますが、それが「シャボン玉とんだ宇宙(ソラ)までとんだ」のテーマでもあります。
これは言い換えれば、数学でいうところのフラクタルという概念になります。自己相似形ともいいますが、どの極小の一部分を取っても全体と同じ形が出てくるというものです。
僕は芝居はあまり上手くない(と思っています)です、具体的にいうと、台詞に即した感情の起伏というのは、自然にはなかなか再現できず、いつも、難しいなぁと思いながらやっています。
ですが、今回チャレンジとして、掌の中の宇宙、一は全、全は一、フラクタル、そういったものを体内に持ったまま、芝居というか演技というか、そう言われるものを、自分を入れ子にした、一つのエネルギー体として舞台に立ちたいと思うのです。
非常に抽象的で申し訳ないのですが、今回トライできるとしたら、自分はそういった世界観を舞台に体現したいと思うのです。
詳しくは書けませんが、実は今回セットも僕としてはそういった形、つまりフラクタル図形としてみれるものが上がってきており、これは凄いな、舞台装置家の太田創先生ありがたや。という感じです。
具体的にいうと、マンデルブロ集合やジュリア集合↑というようなフラクタル図形を思わせる装置です。うん。いいねこれは。宇宙だ。
もっとも矮小と思う自分が、宇宙大の価値があるって、そんな風に思えるものを、つくりたいのです。