言語的妄想仮定理論 | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

言語的妄想仮定理論

マーク・ピーターセンの「日本人の英語」を読んで、英語のちゃんとした感じやそれに比べての日本語の曖昧さを感じているわけですが、

さて、ここからは完全な推測と妄想です。間違ってることだらけと思いますが。すいません。


英語のあのかっちりとした感じは、キリスト教という一神教の影響も小さくはないだろうなと。もっというと、一神教のところは言語的に英語のような構造をもつところが多いのではないかなと。

基本的に、絶対的な唯一の存在である神以外は皆平等であるというのが教えなので、上下関係は存在しません。だから敬語という考えも薄く、I、you、でまかなえるわけです。

また、冠詞や時制といったハード面での構造がしっかりしているのは、これは一神教に限らずですが、他民族もしくは他国との争いや侵略が多かった民族(一神教は多いのですが)の言語ほど、こういったハード面がカッチリしているのではないかと。

というのは、例えばある土地を征服したあと、人々を従えるには「誰が」「どうする」(命令の必要がある)ということが第一義であって、色だの心情だのの多彩さなんての二の次で良いわけです。ですからこういった争いによって領土を広げたような民族や国の言語、英語もそれに該当すると思いますが、こういう言語は「SVO」語順のところが多いのではないかなと。「誰がどうする」がまず頭にくる。

それに比べて、日本語なんかは真逆で、「何を」の方が重要なわけです。内面やコンテンツといった。だからこういう比較的争いの危険が少なかったところは「SOV」語順になる。

で、言語や思想の違った民族を支配するには言語的にもまずはハード面をカッチリとしないと、人を動かしづらいということが出てくるかと。また、例えば所有の問題なども大きいですから、物が「何に属して」「どれだけあるか」というのが大きいわけです。そこが曖昧になるとまた争いの火種になりますから。だから名詞に対して属を表す冠詞や、複数形、所有格といったものがしっかり出てくるのかと。ルール、契約、カテゴライズ、そういったものがまずはカチッとしてないと、統治できなかったわけです。


と、なった時に、日本というのは見事に真逆なわけです。


孤島であり、ほぼ単一民族であり、他国の侵略がなく、さらに世界にも類をみない125代に続く天皇制の国家ということで(もちろん国内での戦は常にあったけど)、世界でも一番、言語的にも内面に向けてエネルギーを費やせる民族であったといっても過言ではないかと。

その結果が、色や心情などの多彩さや、敬語(多神教民族は、神自体が複数いて階層もあるので、上下関係があり、それが言語的な敬語と対応していることもあるんじゃないかと)につながり、漢字ひらがなカタカナの混合さえ包括し、察するという文化意識から、挙句の果てには文章内から主語すらも省略されるという、英語では考えらんない曖昧さを獲得することができたのではないかと。


こんな理論でいくと、多神教民族でも侵略を繰り返していたような民族の言語には、敬語などがありながらも、冠詞や時勢、名詞の複数形が存在する、なんてことになるのかなぁ?


なんて妄想を働かせるのが、こういう本を読む楽しさっていうのが自分にはあるんですよね。


次回で最後にします。