美しき曖昧さ | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

美しき曖昧さ

英語にあって日本語にないものとして冠詞だとか時制があり、逆に、日本語にあって英語にないものに敬語だとか色や心情的な形容詞の細かさだとかがあるようです。

面白いと思うのは、英語の冠詞だとか時制に代表される細かさ厳正さというものは、単位だとか範囲だとかカテゴリだとかそういった、ある意味で「ハード」面ともいえるものであり、一方、日本語の色だとか心情だとか敬語なんかの細かさ多彩さは、それを見たり聞いたりして動く心の内面、ある意味で「ソフト」面ともいえるようなものではないかな、ということです。

敬語もある意味で、対している人間の内面を忖度するが故に、自分の位置や有り様を表す語ですから、ある意味で人の内面に根ざしていると思います。

こっからは勝手な想像で、おそらく大陸にその発生を根ざしている英語では、他民族の間で必要なのは、単位だとか範囲だとかカテゴリなどの「ハード」面であって、ルールや契約がはっきりしていないと、民族間での齟齬や争いに発展してしまうのではないかなと。

日本人は孤島のほぼ単一民族として生きてきましたから、そこらへんの厳正さはそこまで求められず、なんというかまあ「察する」文化みたいなのが発展し、大陸の人に比べたら、そりゃまあ元寇なんかはあったけど、そんなに外部からの侵略に気を使うこともなく、その分内面性にエネルギーを注ぐことが出来て、やれあの色は何々色だとか、切ないだとか勿体ないだとか、そんな細かさが言語的に出来上がってきたのではないかなと。

英語を勉強すると、日本語にあらわれるそこらへんののんびりとした美しき曖昧さに、ある意味で日本人でよかったなぁ、と思うことがあるのです。