翻訳を超えた翻訳
あ、年越しだ。まあいいや。
で、出てくるたんびに注釈がふりふり、たぶん煉獄以降は一つの篇につき1000以上の注釈が入るんじゃなかろうか、その都度ページをめくって注釈を読み、また戻り…
と。
それでも終えられたのは、訳者の寿岳文章さんの訳が見事だったからではないかと。この人凄いや。
っていうのも、神曲ってのはダンテがすべて詩で書いたものですから、それを訳すのは大変だろうなと。
通常の翻訳も大変ですが、詩となると、その持つ微妙な間やニュアンスってのは、他言語を介した時点で失われることしばしばなわけで。だってそもそもが、神曲もそうですが、基本的には押韻脚韻を踏んでいるわけですが、日本語ではそうもいかないし。やったらやったで何だか出来損ないのラップみたいになっちゃう。
でも寿岳さんのは古語や日本語独特の言い回しをふんだんに駆使して、イメージを深め、神曲の持つ高潔さや荘厳さをいや増すのに成功しているのです。
こんなん訳者自身が立派な一詩人としての素養がなければできないことで、語彙力も含めたとんでもないその素養に脱帽。という感じでした。
僕は本来、翻訳物はなかなか読みません。
というのも、どんなに素晴らしい翻訳でも、母国語で読める人が母国語で読む以上にはその真髄や楽しさは味わえないだろう、と思うと、面白ければ面白いほど悔しくなるからです。だって宮沢賢治はやっぱ日本人じゃなきゃ本当の意味で突き刺さらんだろうって思っちゃうし、嫌いじゃなくて、悔しいんです。
でも、原著は読んだことはないのですが、この神曲とか、アルジャーノンに花束をとか、あと海潮音の上田敏とか、翻訳を超えた翻訳を読むと、その労苦と言語を超えた精神性の共鳴に敬意を感じ、読了の際は、たとえ街中でもこっそりと本を持ちながら人目を盗んで立ち上がり、「ブラボー」と囁いてスタンディングオベーションをすることにしているのです。