年子スリップストリーム | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

年子スリップストリーム

年子の弟ってのはが自分とは真反対の性質を持ちながら育っていくんじゃないか、と、書いてはいたけども、はてな、それはそれで必然であるような気がしてきた。

というのも、そもそも長子というのは、その両親、家庭における、当たり前ながら初の育児の試みであって、いわば長子というのは、育てられる側のパイオニアとして生きていくわけだ。

そこにあるのは、つまり、子どもという立場として、怒られる先駆者として育っていくということである。親としても暗中模索のなか不安と手探りで育てる長子、そこには喜びや楽しみだけでなく、想定外に満ちたリアクションからくる怒りや憤怒もまた日々に満ちている。

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さて年子の、しかも同性の弟というのは、そんな泣きわめく長子と燃える両親とが発する火花のようなやりとりを、その年の近さから、長子とほぼかわらぬ理性と知性をもって「ああ。ああいうことすると怒られるわけね。俺はやらんとこ」というように、また同性でもあることから、長子を極めて良いテストケースとして日々眺めながら生きていくことになる。

そう生きていくうちに、次男は、兄が侵すような失態は意識的にも無意識的にも避けて生きていく。兄がオフロードであれば、オンロードのように、そうしてまるでスリップストリームのように兄のすぐ後ろぺったりと付きながら、空気抵抗の極めてすくない滑らかな渦のなか、要領よく育っていく。

つまりあんまり怒られないのだ。ええい羨ましい。

たとえば、人生において反抗期というのがあるが、僕が父親にゲンコツを派手にもらい、反抗期が12秒で終わるのを傍目にみて、美昌に関してはそのメリットデメリットを岡目八目的に計る余裕があり、結果、反抗期をとらないという選択をあいつはとり、ゲンコツを回避したり。

そうして、僕にとっては厳格の象徴であり、呼ぶことさえ憚られる存在である父親に対し、「ねぇ♪パピー♪」などといって容易く肩に腕を回せる、などというのは、これはもう年子の弟がいかに長子を見るがゆえにその逆を生きてきたかの証拠のようなものなのだ。



ってかだいたいね…あ、だめだ、止まらない。弟の話が。だけど電車は止まる。長子の背負う哀しみが俺の指を運ばせるのか。

あのね、何が言いたいかというと、「弟との重ね合わせ」ってのが『星の王子さま』にはない劇作「リトルプリンス」の醍醐味だってことがいいたいんだけど。


また弟の話だけで終わっちゃった。