劇場というサナギから羽化するかの如く | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

劇場というサナギから羽化するかの如く

自分でどうにもならないことってのは、結局、理だとか情だとかではどうにもならないもんで、というのは、論理も感情も、なんだかんだいっても意識の産物であり、こういった意識が働く領域からの矢は、自分ではどうにもならないという、つまり意識ではではなんともコントロール出来ない領域のものには届かない、ことが多い。

だから意識できないもの、アンダーコントロールでないもの、そういったある種の不意打ちみたいなことでようやく響くもの動くもの変わるものになりうる、それが自分ではどうにもならないことなのだと思う。

{537F1EA2-7BA7-4CBF-8317-65F3DE8FAA5B:01}

それは「ああ、いまやっていることは、これこれこういうことね」なんて類推が働くものではいけなくて、脈絡がないものでなくてはならない。筋があってはいけない。理が通ってしまうから。

そしてその脈絡のなさによる混沌を受け入れるための静けさがなくてはならない。感情の昂りは魅力的ではあるけど、それはそれでせっかくの混沌を受け入れる阻害になりうるし、何よりも網の目が大きくなりすぎて本質を見失う可能性がある。


そういった意味でいうと「星の王子さま」というのは、自分では如何ともしがたいものを抱えて落ちた飛行士にとってベストなのだ。

{4A92E48A-7F65-462E-8796-B19936C40AD7:01}

以前書いたように、伏線などがあって何かが順序立って紡がれていくというよりも、二度と現れぬ一期一会のキャラクターたちと出会っていく、シナプスの発火のような話であり、またそれを共にする王子も、語る言葉は不可解であり脈絡がなく、それでいてしかし、激することなく、子どもでありながら大人よりも老成した者かのように、静かにとつとつと語っていく。

また、自分の奥深くのものであればあるこそ、己を粉々にしなくては見えない触れられないし、またそこからリストラクチャをかけなくてはならなく、それはギリギリの綱渡りのようなラインであって、一歩間違えれば死に近い、という危険な所業でもあるだろう。

{A7AFA51C-D4F9-4AE1-A6B2-C9D09BF88643:01}

だから、王子と出会った砂漠というのは、飛行士にとってのまさにサナギなのだ。

乾きのためにぎギリギリ死に瀕し、不思議な王子や様々なキャラクターと脈絡もなく会いやがて翼を得る様は、自分をドロドロの混沌極まる液体にまで分解しながら、薄い殻と数本の糸という危ういバランス上で、じっと動かずに内部で苛烈な再生を繰り広げ、やがて羽化していくそれと重なる。


そして舞台の観客は、得てして主人公と己を同化しながら物語を追体験していくものだ。


観客が劇場というサナギの中で飛行士と自分を重ね、例え動かずとも激しくその内部をかき回され、やがてそれぞれにとっての新たな羽根を生やして劇場から羽化し帰路につく、「リトルプリンス」はそんな作品であって欲しいし、そんな作品にしたい。