かわらないからこそかわることが② | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

かわらないからこそかわることが②

毎日同じことを繰り返すことは、良い意味で惰性でできる。惰性でできるので、頭でいちいちと順序ややり方を考えなくてよい。

バーレッスンで言えば、きまった自分のルーティンをやるのは、パに対してなんの脳のメモリも割かなくてよいことになる。パに割かないメモリはどこに割けるのか、自分の身体に対して割けることになる。

ーーんん、今日はなんか重いぞ、食べたものがまだ胃に残っていて腹筋群が引き上げづらいな、骨盤をもう少し左平行にずらすとバランスがとれる、身体の中で内巻きと外巻きの相克を創ってーーなんて感じで考えられるのは、ひとえにメモリを外側に割かなくてよいからだ。

そのうち体の中のテンポや音だとか液体の流動、空気との境目、そういったものも含めて、微妙な感覚で一昨日よりも昨日、昨日よりも今日と、本当に些細な差異をとって、ああ、こう動けばまたよくなるぞ、この間よりもここが動くようになっているじゃないか、そんなことが感じられるようになる。

だから、変化のないことが必要なのだ。変化のない日々だからこそ、自分の小さな変化がわかるのだ。基準となる尺度が変わらずあるから、相対としての変化が小さなものでも測れるのだ。変わらないからこそ変わることがわかるのだ。

旅だとか、新らしい日々は新たな自分に出会わせてくれる。変わらぬ日常は昨日よりも変わった自分をわからせてくれる。


その二つをもって、混ぜて磨いて自分を形作っていくのだ。それがどんな日々でどんな形になるか、予想もつかず期待を膨らませながら。