「緊張してること自体がもはや」
こないだの続き。緊張してたほうがアドレナリンのおかげでいつもよりパフォーマンスが上がるはずだから、緊張をなくすのはもったいない。と書きました。
よく「普段通り」にやればよいと言われますが、本当に緊張もせずに普段通りやったら、普段のパフォーマンスにしかならないわけです。
まあ人前であったり、舞台であれば照明や衣裳がついたりと、ある意味「異常」な中で「通常」を披露できるというのはそれ自体が芸になるかもしれませんが。
そういうのはもうずいぶんと一回り二回り三回りくらいした達人域の人が醸し出せるものであって、通常は大なり小なり緊張が伴うはずなのです。いつもと違うんだから。
で、もしプロと呼ばれる人たちが緊張しないように見えるのであれば、それは「緊張してないように見せる」ことに長けているということだと思うのです。
あらゆる場面で緊張し、何度も乗り越えてパフォーマンスを重ねてきたからこそ、内面ではバクバクしていたとしても、様々な手でコントロールする術を覚えたということなのです。
あれに例えればわかりやすいかと。
ロデオ。
荒れ狂う牡牛が緊張であり、カウボーイが自分。一見平然と見えるプロのパフォーマーであっても、己の中でこういった戦いを行っているはずなのです。
さてどうでしょう?もし人前に立つことがロデオであるとしたら、仮に牡牛が何の闘争心もなく、のんびりと草をはむはむと食んでいたら、カウボーイが手綱も持たずにやんわり乗っかっているとしたら、あなたが観客だとしたら何が面白いでしょうか?
そうです。実は内面で荒くれる牡牛のような熱情と、それを外面におくびにも出さず乗りこなす冷静が、一人の人間の中に拮抗している、その状態自体がもはや立派なパフォーマンスであり、アートなのです。
そんな危うい均衡を保った人間がさらに綱渡りのように何かを発するからこそ、感動を呼ぶのです。
だからよく「緊張をなくすにはどうしたらいいですか?」と聞かれるのですが、
『なくなんないよ。バクバクして大変だけど、それがもう素敵なんだよ』
と声を大にして言いたいと。
と、ここまで書いたところで出発です。今日もロデオのような一日が始まります。乗りこなせるかどうか。