落ちるように走る 11 | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

落ちるように走る 11

新年から走っています。
今年も走り続けるのだろうなと思いながらテクテクと跳んでいます。

「落ちるように走る」といって書いてきましたが、舞台部の小山くんのお父さんをはじめ、意外と読んでくれている方も多かったのでちゃんと最後まで書きたいと思います。(前回までのまとめ


さて動的平衡ともいえる第三期では、いよいよ走ることは前方への推進というよりも落下のような体感になると書きました。浮遊感を伴うわけです。

どういうことかというと、飛行機が急上昇したあとエンジンを止めて落下すると、機体内が無重力状態になり人間がフワフワと浮いているという映像をよくみるかと思います。

つまり重力にまかせて落下している間、人間は無重力状態を体感することになります。「落ちるように走る」とは、走るという「推進」の行為を、運動的にも意識的にもこの無重力状態の獲得のため「落下」と捉えようということなのです。

フリーフォールだとかジェットコースターだとか、ああいった乗り物を人が好むのはよくスリルを得体がためだと言われますが、僕は落下による無重力状態を得たいという本能的な欲求があるのではないかとも思います。

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質量ある肉体を得て生まれ出た瞬間に、人は重力との付き合いが始まります。自分の身体にかかる重さだけでなく、頭上に積み重なる大気の重さ、大気圧とも生涯付き合っていかなくてはなりません。人は辛さや苦しさを「重さ」として表現したりもしますが、ある種、逃れられぬ宿命として背負いながら生きつづけていくものの喩えとして重さを捉えているのではないかと思います。

極論にはなりますが、例えば死というものに人は恐怖を覚えながらも万分の一でも本能的にそれを欲してしまうようなところがあるのは、この質量ある肉体を滅して重力から解き放たれたいという想いがあるのだと思います。だから天国はいつの時代にも重力とは逆ベクトルに存在する上空の「天」として描かれるのではないでしょうか。

そんな重力から一時でも解き放たれる瞬間、それが落下であり、それに伴う無重力状態なのです。走る上で足が地面を蹴り、次の一歩を踏むまでの間、人は落下しているのであり、束の間ではありますが重力から解き放たれるのです。走るというのをその連続体の行為として捉えようというのが「落ちるように走る」の骨子でもあります。

というわけで、例えば「接地する足は前足部にして、なるべく接地面積も時間も小さくする」とかっていうのは、言い換えれば宙空にいる時間を少しでも長くしたい、落下する時間を、重さから解き放たれる時間を少しでも長くしたい、という意味なのです。


長くなったのでまた次回。