なんで舞台をやっているのか?⑤ | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

なんで舞台をやっているのか?⑤

ちょっと間があきましたが、なんで舞台をやっているんだろう?ってことに関する続きです。
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以前も書いたのですが、舞台というのは台詞も決まっていて、もちろんダンスは振り付けが、歌はメロディが決まっています。絵画や小説などの作者がそのまま想いを形に変える芸術形態と違い、与えられたものをどう昇華させていくかという部類の芸術に入ると思います。クラシックなどもそうでしょう。

やることが決まっているというのは、なんだか窮屈な気がする時もあります。ですがこのシリーズの冒頭でかいたように、あまりにも自由となるとそれはそれでどうしたよいかという気にもなります。こんなこと考えていると、僕なんかは表現を生業にするのは向いていないなぁ、なんて考え始めてしまうのですが、それは今はちょっと置いといて。

最近はこの演劇という表現形態に対する考え方がちょっと変わったなと思うのです。

先ほど台詞が決まっていると窮屈だと書きましたが、裏を返せば「台詞があるから交流できる」のです。エチュードのように全てが自由になった時に、逆に話す術を失います。もっと言ってしまえば、日常であまり会話をしない相手とも、台詞があるから交流できるのです。それがなければ、その相手とそこまでの感情で言い合いをする、なんてこともないのです。

これはつまりガイドラインのようなものと考えられます。

例えれば、自分というものを地球だとすれば、戯曲や作品は海のようなものです。エーゲ海とか日本海とか、骨太なものであればマリアナ海溝だとか。そして台詞やメロディは振付はそこを潜るためのガイドラインや命綱のようなものです。グランブルーのようなフリーダイビングの世界記録を目指す時にあったり、海猿で海難救助で潜る時に垂らしてある、あの綱です。

あれがあるから、海の底深くまで潜っていけるのです。もしなければ広い大海原に放り出され一体何をどうすればいいのか途方にくれます。これが僕にとってのエチュードです。決められたものがあるから、それを何度も繰り返すから、深くまで潜っていき、自分という地球の深層を垣間見ることができるのです。

戯曲や作品といった海は、地球という自分の様々な面ともいえます。いろいろな面から潜っていき、自分の様々な景色をみることになりますが、結局中心に向かって降りていきます。

僕にとって舞台や演劇というものは今はそういう位置づけのものです。

演劇に限らず、何度も何度も繰り返し決められた枠を芸術まで昇華させるといった類のものは、最終的に己に降りていく作業と言える気もするのです。



なんだか書いていてよくわからなくなってきましたが、また次回。