「泣かないで」に想うこと⑦ | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

「泣かないで」に想うこと⑦

ずいぶん間があきましたが続きです。

「ゆとり世代」「さとり世代」という言葉をよく聞きます。
アホらしい考えかもしれませんが、僕は「ゆとり」は除菌や抗菌ができるようになったこと、「さとり」はネットが発達し様々な情報が得られるようになったことと時代的にリンクするんじゃないかなと思います。前回書いたように、「身の回りや、先にあるリスクを回避できるようになったこと」による「未知の困難に対する耐性の弱体化」がそのまま反映された結果だと思うのです。

それで「ゆとり世代は~」とか「さとり世代が~」なんて言葉が出てくることがあるけど、僕はあまり好きではありません。

英語圏で生まれた子供は英語を喋るようになるでしょう。
食生活が豊かな時代に生まれた子供は良い体躯に育っていくでしょう。

どのように育っていくかは、本人の生き方云々もありますが、時代や環境の因子が大きく反映される面もあると思うからです。ゆとりもさとりも別にその世代を選択して生まれてきたわけでなく、そういう風になってきた時に生まれたというだけのことです。

だから、僕は直接の世代ではないけれども「ゆとりが~」「さとりが~」という言葉がでると「じゃあその時代に生まれた者はどうすりゃ良かったのか?」と言いたくなるのです。それはもちろん直接の世代でなくても自分にも往々にしてそういった面を持つからです。
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断っておきますが、こんな風に書くとまるで除菌や抗菌やネットの発達が悪いことかのように聞こえるかもしれませんが、僕はそういうことが言いたいのではありません。除菌や抗菌により救われる生命や健康も数えきれず、ネットの発達による利便さも言うまでもなく、これら科学の発達による恩恵は計り知れないものがあります。ですが、その「副作用」として、「困難への耐性」が薄まってしまい、それはある意味、仕方のないことなのです。

さて、そんな中で、だからこそ「俗にいう『ハッピーエンド』でない」音楽座ミュージカルが必要なのではないかということをやっと書いていきたいのですが、今日はここまで。


ひゃー、明日はいよいよ「泣かないで」千秋楽。
終わる前に書ききりたかったけど、「泣かないで」にも「メトロに乗って」にも続く話なのでもうちょい書きます。

観に来てください!メッセージいただければお席ご用意いたしますので。