十牛図④「人牛倶忘」
さあいよいよクライマックスです。
第八図はアートとしてもエキサイティングです。
第八図
「人牛倶忘(ニンギュウグボウ)」
なんと、、、人も牛も消えて円しか書いてありません!
第七図の「忘牛存人」で、十牛図というのに牛が消えてしまったことに驚いていたのに、なんと人まで消えてしまいました。
牛を悟りとした時に、それを捕まえた、つまり「悟った!」という気持ちさえ新たな迷いに変わるのだから、悟ったことさえ忘れなさいというのが「忘牛存人」であり、悟ろうとしていた自己さえ牛と倶に忘れよというのが「人牛倶忘」であり、そこはただ中空が広がる無仏の世界である。禅の修行ではここまで来なくては本当の意味での悟りにならないそうです。
西洋哲学と比較するわけではありませんが、自分自身さえ忘れろ、忘我というのは、デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う、故に、我あり)」とはまさに対極をなす思想だと思います。東洋思想というのは、西洋からみたら非常にぶっ飛んだ思想だったのではないでしょうか。
これ単体ではただの丸ですが、十牛図といいながら、ここまで随分具体的な絵を置いてきながら、いきなりこんな何もないただの丸を、しかも途中経過の図としてなんのてらいもなく置いてしまうあたりが、なんとも、、、エキサイティングというか、アバンギャルドというか、アートとしてもすごいです。
さてこれが八図だとしたら、あと二図はどうなるのでしょう。。。
iPhoneからの投稿
第八図はアートとしてもエキサイティングです。
第八図
「人牛倶忘(ニンギュウグボウ)」
なんと、、、人も牛も消えて円しか書いてありません!
第七図の「忘牛存人」で、十牛図というのに牛が消えてしまったことに驚いていたのに、なんと人まで消えてしまいました。
牛を悟りとした時に、それを捕まえた、つまり「悟った!」という気持ちさえ新たな迷いに変わるのだから、悟ったことさえ忘れなさいというのが「忘牛存人」であり、悟ろうとしていた自己さえ牛と倶に忘れよというのが「人牛倶忘」であり、そこはただ中空が広がる無仏の世界である。禅の修行ではここまで来なくては本当の意味での悟りにならないそうです。
西洋哲学と比較するわけではありませんが、自分自身さえ忘れろ、忘我というのは、デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う、故に、我あり)」とはまさに対極をなす思想だと思います。東洋思想というのは、西洋からみたら非常にぶっ飛んだ思想だったのではないでしょうか。
これ単体ではただの丸ですが、十牛図といいながら、ここまで随分具体的な絵を置いてきながら、いきなりこんな何もないただの丸を、しかも途中経過の図としてなんのてらいもなく置いてしまうあたりが、なんとも、、、エキサイティングというか、アバンギャルドというか、アートとしてもすごいです。
さてこれが八図だとしたら、あと二図はどうなるのでしょう。。。
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