シーソー・インソムニア | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

シーソー・インソムニア

高校のころ「GreenDay」というバンドが好きで、「Dookie」というアルバムが一番好きだったんですが、一番印象に残っているのは「Insomniac」というアルバムのジャケットでした。
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なにやら不思議なコラージュに惹かれ、ジャケットを眺めながら一晩中新譜を聴いてました。

大学のころ「鬼束ちひろ」の「月光」に衝撃を受け、買った1stアルバムが「INSOMNIA」でした。
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「眩暈」など名曲揃いで、月明かりの中、イヤホンを耳に当てて夜ごと高田馬場をうろついてました。


さて、なにがいいたいかというと、

「インソムニア」

つまり眠れないのです。



公演が始まると、たいてい不眠が訪れます。普段と何か違うスイッチがはいるのです。

この公演期間中だけでも、知っているだけで、一組が別れ、一つの命が授かり、一組が結ばれ、一人が旅立ちました。そんな中で自分は、毎日同じ台詞をいい、同じ歌を歌い、同じステップを踏み、同じ作品をかさねています。

着々と周りが変化する中で、日々同じことを繰り返す、そんな相反することに対する何かしらの調整がはたらくのかもしれません。

とにかく眠気が訪れず、ホットミルクも、ストレッチも、半身浴長湯も、寝酒も、読書も、眠剤も、その他ありとあらゆる手法や手段を使っても、布団に横になるや否や、明け方まで爛々と目が冴えてしまうのです。

夜、身体は沈殿した泥のようにくたびれていますが、その反面頭は磨き立てのガラスのようです。
逆に日中、身体は燃えるタービンのようですが、頭は止まる直前のひしゃげたろくろのようです。

どちらかが上がればどちらかが必ず下がるシーソーのようです。両方地面につくことがあればいいのですが、そんなシーソーはみたことがありません。

主演の広田さんに相談した所、
「そういうときの方が良い芝居ができんだよ。良く寝た日の次なんか良かったためしがねえよ。ラッキーだな」
といわれました。うちのメイン俳優が言うんだから一理あるのでしょう。

でも、それはなんかわかるような気がして、頭がガラスのようなときはクリアな景色から普段見えないものが見えるし、逆に頭が止まったろくろのときは、向こうから回るようにと何かが手を差し伸べに来てくれます。

いずれにしろ有意識の根底からか、無意識の狭間からか、自分では普段認識できないところから何かしらのアプローチがあるのでしょう。

しかし、公演が進むに従ってこの振れ幅は大きくなっていきます。やはりどこかで均衡を取り戻さなくてはならない、という不安に駆られます。

ですが一体、この重い身体と眠気を両端にのせて、自分は何の均衡をとりたいというのでしょう?

シーソーは天秤とは違います。どちらかが上がり、下がっているから安定するのです。釣り合いというのは見た目は均衡がとれているけれど、許された一点のみにおける現象であり、むしろ極めて稀な状態といえます。それを保つには永続的な緊張を要求されます。

最もバランスがとれてみえる状態が実は最も不安定であり、最もアンバランスにみえる状態が実は最も安定しているのかもしれません。

バランスと、安定は、別物です。

そもそも、同じ舞台を繰り返すなどと言ったけども、同じ舞台など一つもなかったのです。映画ではない、一度も同じでないからこその舞台でした。いや、映画でさえ、観る側が変化しているのだから、芸術が送り手と受け手がいて成立するものであることを考えれば、同じであることなど一つもありません。

日々繰り返す目まぐるしい出会いと別れと生き死にの繰り返しの中、二度と繰り返さぬ舞台の幕をまた今日も上げるのでした。

ほらこんなことを書いているうちに、また夜があけて、日が上がってくるとだんだん瞼が下がってきて、、、

ああ、ここにもシーソーが一つ、また。


こんな不眠が、「Insomniac」や「INSOMNIA」と並んで、せめて自分にとって大事な「インソムニア」であればいいなと、目をこすりながら思うのです。



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