浅田真央選手にみる | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

浅田真央選手にみる

先日は高梨沙羅選手について書いた。
人が若い一時に放てる、眩い輝きをみせてくれるのは素敵なことで、それをみれるのは至極贅沢なことだと書いた。

しかしやはり、それは一時であり、無情にも人はその輝きの時から移らなくてははならない。

だがその、人が移ろう課程をみるのが、同じくらい好きなのだ。

今回は浅田真央選手について書こうと思う。

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先の四大陸フィギュアスケート選手権で浅田真央選手が優勝を飾った。
しかもずっと跳べなかったトリプルアクセルを跳んでの優勝。本当に素晴らしいことだと思う。

物事には、特にスポーツに顕著だが、若い時期、特に幼少期の体がまだ未成熟な時期にこそ、高いパフォーマンスが発揮できるものが少なくない。中でも、体操やフィギュアスケートのジャンプなど、柔軟性や体の軽さによる跳躍が求められるスポーツはその色が強い。

そういった競技で若い時期に活躍した選手が、成長するに従って伸び悩み、成績を落としていく姿は珍しくない。先に書いたような若いが故の一時の輝きが失われたようで、観ている側も、そして何よりも本人が暗澹たる気持ちになる。

しかし、ここから人が変わっていく姿が重要だ。

二度とは戻らぬ力の代わりに、何の力で戦えるのか、今までは考えなくても出来たことを、考えながらやって行く。一つ一つ吟味しながら身につけた技を再構築し、もう一度磨き上げて行く。その課程で人は、思想や哲学を手に入れる。

そういう意味では、怪我をした人間も同じだ。千代の富士も、桑田真澄も、小野伸二も。

自らが動けなくなった時、人は、周りを動かす。
周りが動けば、空気が動く
空気の動けば、やがて人の心を動かす。

思想は動きから滲み出し、哲学は空間を伝播する。


浅田真央選手は年齢も22歳になり体格も大人になって、メンタルの上でも母親との死別や世間の期待やプレッシャーなど、物理的な重力だけでないあらゆる重みを負ってきた。その上で跳んだ今回のトリプルアクセルは、ジュニアの頃に跳んだトリプルアクセルとはまた別の意味合いを持つ。

軽やかさだけであれば、ジュニアの頃の方がそれは苦もなく跳んでいたであろう。しかし軽やかさとキレだけでなく、真の意味での「重み」を含んだ濃密な三回転半であるはずだ。


そんな姿を、若さ故の一時の眩い輝きと同じくらい、美しいと思う。


そんなわけで、今回の浅田選手の場合、同じレベルにまで戻してきたというのは驚嘆に値すべきことである。しかし浅田選手も人の子、身体能力だってそのうち翳りが必ず出始める。ジュニアのようには絶対に跳べないのだ。


しかしそれに反比例するように、ますます「重厚」になるトリプルアクセルを軽やかに跳び続けてほしい。