第2回「ターミネーター究極試写版を愛でる会」開催
5月16日(土)、通算2回目となる、「ターミネーター究極試写版を愛でる会」を無事に終えた。
下は10代の高校生から、上は60代(?)まで、非常に幅広い男女27人の猛者が参加してくださった。
内容は、「ターミネーター」一作目の未公開シーン(正味9分程度)を本編に入ることで、物語がどれだけ変化するのかを比較検証した。
そしてさらには、脚本の第一稿の内容にまで遡り、どれだけの内容が第一稿に含まれていて、それが劇場版に至るまでで、どれだけ省略&変化していったのか、その違いなどを、イラストや静止画などを駆使して紹介した。
イベントとしては、僕が発表するだけではなく、参加された皆さんからも、「ターミネーター」という物語についての熱い考察や、キャメロンの演出論などが飛び出し、非常に多角的に、和気あいあいにイベントを進めることができた。
もちろん、完全クローズドのイベントだからお伝え出来ない貴重な内容も多々あったが(そっちがメインなんだけどね)、とにかく楽しく終えることが出来た。
なお、この辺りの内容は、過去にも記事しているから、よければご覧ください。
脚本第一稿の内容については、トリビアとして9つを紹介した。
この第一稿と、完成した実際の映画を比較すると、非常に興味深い。
せっかくなので、ここでは二つだけ紹介する。
1. リースは一人でタイムトラベルしてきたわけではなかった。
映画では、カイル・リースは全裸で路地に一人で出現するが、この初期案ではもう一人、別の男が同時に送られてきていた。
しかし、彼は運悪く、非常階段の鉄格子と重なる形で実体化してしまい、腹部と肩を貫かれて致命傷を負う。
リースは、彼を安楽死させるために、自らの手で彼を窒息死させてから行動を開始する。
2. ターミネーターは「食事」をする。
映画版では、機械が食事をする描写はないが、初期案では、「ターミネーターは、人間の皮膚組織を維持するために『食べる』必要がある」とリースが説明している。
※ニワトリほどの大きさの小さな心臓や内臓がある設定)。
実際に、ターミネーターが車を運転しながら「ミルキーウェイ(チョコレートバー)」を包み紙ごと2口で食べてしまうという不気味なシーンが初期案には存在するのだ。
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とまあ、こんな感じのトリビアを9つ紹介した。
いずれも、参加者を「おおお」「なるほど~」と唸らせるだけの内容だったし、キャメロンは、どれだけ深く考えた末に、「観客が理解しやすいように」簡略化していったか、その過程が垣間見られた。
参加者した友人の言葉が印象的だ。
「キャメロンはSFの超マニアなのに、作る作品はディテールに走りすぎない、程よい大衆性がありますよね。
そこが、シュウさんの分析にもあった『分かりやすさの追求』に現れてるし、ヒットの要因にもなってると思うんです。
その分、先進的なSFを求める向きには、SFとしてちょっと古典的だったり大雑把に見えてしまう。
アバターが好い例ですよね。
T-1000の液体金属かつ全身プロセッサーな個体はかなり先進的だったと思うけど、それも強烈な敵キャラクターの造形として。
削除シーンにあった、指先で物体から記録をスキャンする機能も編集で省いてしまったし…。
どこかで一発、分かりにくくなったとしても、超最先端のSF、かつ、キャメロンがカットしてきたような、ウェットでヒューマンな側面が強調されたすごくパーソナルで作家的な作品を作ってくれたら…。
これまでの娯楽的バランスは失われても、歴史に残る新たなSFが産まれたりしないか…などと妄想しています。」
本当にこの通りで、キャメロンの作家性は、分かりやすさとマニアックさの程よいバランスが特徴で、だからこそ大ヒットに繋がっていったと思う。
でも、難しいのは、バランスが良ければ良いほど、作家の個性が埋没しかねない…ということだ。
指摘にあったように、分かりにくくても、娯楽的バランスが失われても、パーソナルな面が強調されたら、歴史に残るSFが生まれるかもしれないと思う。
先日翻訳したディヴィッド・リンチの言葉が印象的だ。
「私の映画にはすべて論理がある。論理にはとても関心があるよ。ただ、その論理というのは……抽象へと向かうものだ。抽象的でありながら論理的なもの、というのは存在する。 私は『直感』を心から愛している。私に言わせれば、直感とは 『知性と感情が共に泳いでいる状態』だ。」
観客とコミュニケーションを取るためには「論理的」なのが重要なのに、リンチの場合は、それを軽やかに飛び越えて「抽象性」に向かっていく。その二つが共存する鍵が「直観」なんだね。
この辺りに、個性的な映画を作る場合のヒントがあるのかもしれない。
「ターミネーター」一作目は、キャメロンが見た夢がベースにあるという。
※これは、キャメロンが描いたエンドスケルトン。
※もちろん、ハーラン・エリスンやP.K.ディックの作品群も元ネタなのは事実だ。
この、ある意味「直観」を大切にして、小規模のバジェットなのに、丁寧に具現化した手腕は、本当に素晴らしい。
「ターミネーター」には、確実に印象的な「画」も多数存在する。
「ターミネーター」は、これまでの作品の中でも、非常に作家性が出ている一本だと思う。
こちらは、貴重な「ターミネーター」のポスター。
企画段階の当時、カンヌで配給先を見つけるために、キャメロンが描いた直筆のポスターイラストだ。
全ての手の内を明かさないように、炎から現れたのはシルエットのみで、エンドスケルトンは敢えて描かれていない。
キャメロンには、出来れば「アバター」からはすっぱりと手を引いて、もっと個性を前面に出した作品も作ってほしいなあ。
なお、今回のイベントでは、参加者の「どつぼのチョウ」さん@chowoishii829 から素敵なプレゼントを頂いた。
なんと、アメリカ版の「ターミネーター」4K版のディスクだ。
持っていなかったから本当に嬉しい。
そんで、4K用にアップデートされたと言われている画質が気になっていたから早速観たのね。
スゲー!
超詳細!
これまでで一番美しい映像がそこにあった!
でもね…粒子感が消えたつるんとした画質は、賛否あるんじゃ無かろうか。
キャメロンは、この粒子感を徹底的に嫌い、ずっと不満だったらしい。
だから、他の作品でもツルンとした画質にリマスターをしまくっている。
作品に対するキャメロンの思いの結果だし、あくまでも監督が満足するカタチにしたがるのは当たり前とも思う。
ただ、「ターミネーター」一作目については、84年当時の空気感と、フィルムグレインは密接な関係にあると感じるから、レタッチは不用だったと思うんだよね。
とはいえ、非常に美しい画質には、やはりウットリするのも事実。
難しいよね〜。
どつぼのチョウさん、本当に感謝です。
全訳:デイヴィッド・リンチ:『アイデアがすべてを支配する』(2006年)

映画監督デイヴィッド・リンチへのインタビュー「デイヴィッド・リンチ:『アイデアがすべてを支配する』(2006年)」の全訳をお届けする。
デイヴィッド・リンチは、美術学生から映画監督へと、『イレイザーヘッド』(1977年)からインターネット、そして『インランド・エンパイア』(2006年)までの創作人生について語っている。
なぜ直感がそんなに重要なのか、『エレファント・マン』を作るチャンス、なぜ『デューン』(1984年)に「ディレクターズ・カット」がないのか、『ロスト・ハイウェイ』(1997年)のインスピレーション、そしてなぜ彼がセルロイド(フィルム)を恐竜だと考えているのか…。
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動画冒頭の解説文:
2006年1月にデイヴィッド・リンチに会った時、『マルホランド・ドライブ』が2001年に公開されてからすでに5年が経過していました。
その間に彼は、インターネット向けの実験的な短編やドキュメンタリー短編を制作しながら、デジタルビデオに夢中になっていました。
私がインタビューをした時点で、彼は次の公式長編作品『インランド・エンパイア』を制作中であり、この作品は最終的に2006年9月6日にヴェネツィア国際映画祭で上映されることになりました。
2020年時点で、『インランド・エンパイア』は彼の最後の劇場公開作品のままです。
デイヴィッド・リンチはめったにインタビューに応じず、自分の作品の「なぜ」と「どのように」について語ることを非常に嫌っていました。
特に、テーマ・キャラクター・プロットを解剖するような質問や、人々が当然聞きたがるようなその他の事柄に触れる質問に対しては、なおさらでした。
私は長年にわたってデイヴィッド・リンチの映画と公の場での発言を追ってきたので、このことを痛いほど理解していました。
また、私は彼を現代最高の映画芸術家の一人と見なしており、その圧倒的な不透明さは尊重されるべきだと考えていました。
そのため、今振り返ると、私はまだそうした懸念を脇に置いて、ことわざ通り「牛の角をもう少し力強く掴む」ことを学んでいなかったことを後悔しています。
ただし、彼がリス(squirrels)とは難しい関係にあることは知っていました。

話者1:インタビュアー(スチュアート・コングスガード)
話者2:デイヴィッド・リンチ
話者3:メル・ブルックス(一部の回想シーンの動画)
こちらが、翻訳の元になった動画。
インタビュー部分から翻訳している。
デイヴィッド・リンチ インタビュー翻訳
映画制作に関するインタビュー開始
話者 1: さて。デイヴィッド・リンチさん、こんばんは。
話者 2: こんばんは。
話者 1: まずはこの質問から。なぜ映画監督になりたいと思ったのですか?
話者 2: 実を言うと、監督になりたかったわけじゃないんだ。映画を作りたかった。映画については、ほとんど何も知らなかった。私は画家になりたかったし、実際、画家だったんだ。ある時、スタジオで「夜の庭」の絵を描いていた。暗闇の中から緑が浮かび上がってきてね。その時、風の音が聞こえて、緑が動くのが見えたんだ。それで「おや、これは面白い」と思った。動く絵を作れたら素晴らしいだろうな、と。
当時、私が通っていたペンシルベニア美術アカデミーでは、年度末に実験的な絵画と彫刻のコンテストがあった。そのために、ポリエステル樹脂で3つの頭部を作ってスクリーンに取り付け、その上に絵を描いた、6フィート×8フィート(約1.8m×2.4m)ほどの彫刻的スクリーンを作った。そこで、ストップモーションのような手法でアニメーションにしたのが『6 Men Getting Sick(気分が悪くなる6人)』という作品だ。 16ミリの、コマ撮り機能がついた小さなベル&ハウエルのカメラで撮ったんだが、当時の自分の蓄えに比べると制作費が非常に高くてね。これは単なる実験で、これきりになるだろうと思っていた。
ところが、それを見たある人が、自分のために一本(作品を)作ってほしいと依頼してくれたんだ。それが、また別の展開へと繋がっていった。
話者 1: それは、どのような?
話者 2: 映画と恋に落ち、「青信号(ゴーサイン)」が出始めたんだ。依頼主から受け取った資金で『アルファベット』という短編を作った。紆余曲折あったが、結局、彼が望んでいたものではなく、アニメーションと実写を組み合わせたものを作った。それから『おばあちゃん』という映画の脚本を書いたんだ。
話者 2: ちょうどその頃、アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が設立され、独立系映画制作者への助成金を募っていた。彼らは過去の作品と脚本を求めていたが、私はその両方を持っていた。ダメ元で応募してみたよ。最初のグループには選ばれず、随分と待たされたが、ある日、私の人生を完全に変える電話がかかってきた。『おばあちゃん』を作るための助成金を勝ち取ったんだ。 それを作り上げた実績で、カリフォルニア州ビバリーヒルズにある豪邸を拠点としていたAFIへの入学が認められた。まるで死んで天国に来たかのような気分だったよ。そこで一つのことが次のことへと繋がり、『イレイザーヘッド』を作る機会を得たんだ。
話者 1: ご自身をビジュアル・アーティストだと思いますか、それとも映画作家(フィルムメーカー)だと思いますか?
話者 2: 人間は実に多くのことができる。ご存知の通り、人は常にレッテルを貼られて型に押し込められがちだが、私たちの中には非常に多くのものが詰まっていて、肩書きだけでは全貌を語れない。アイデアが導く場所、あるいはインスピレーションに従って進むだけだよ。
話者 1: 私にとって『イレイザーヘッド』にまつわる最も驚くべきことの一つは、あの作品をきっかけに、メル・ブルックスが『エレファント・マン』を、ジョージ・ルーカスが(伝えられるところによれば)『ジェダイの帰還』をオファーしたことです。
話者 2: まず一つ目が先だった。メル・ブルックスだ。これもまた別の話になるが、メルに関しては……どうしてこんな素晴らしいことが起きたのか分からないが、彼には永遠に感謝している。『イレイザーヘッド』を見て、私に賭けてくれたんだ。
・・・・・・・・※以下、メル・ブルックスへのインタビューの過去動画・・・・・・・・
話者 3(メル・ブルックス): さて、手短になら、あと2つ質問を受けよう。
話者 1: はい、手短に。1月にデイヴィッド・リンチと1時間ほど過ごしたんですよ。
話者 3: ほう、彼をインタビューしたのか。あの(シャツの)ボタンはどうだった? 留めていたかい?
話者 1: もちろんです。一番上まで。白いシャツに黒いジャケット。
話者 3: 黒いジャケットか。
話者 1: 驚くほど素晴らしい人でした。もちろん『エレファント・マン』の話になり、当然、あなたの名前も出ました。
話者 3: そうか。私が『エレファント・マン』をプロデュースしたことは、誰も知らないんだ。それが君への挑戦(ネタ)かな?
話者 1: 『イレイザーヘッド』の何を見て、彼に『エレファント・マン』を任せたいと思ったのですか?
話者 3: 何を見たか、か。スチュアート、それはとても良い質問だ。『イレイザーヘッド』に見たのは、曖昧ではない象徴主義(シンボリズム)だ。明確な象徴だよ。あの赤ん坊は怪物で、場を支配していた。彼が言わんとしていることのすべてが、極めて写実的かつ象徴的に見えたんだ。彼はそれを見事に、かつ明快に表現していた。だから私は「こいつは偉大な映画監督になる、一番に彼を捕まえて、この脚本『エレファント・マン』を監督させよう」と言ったんだ。 彼は加わり、脚本を助け、メイクアップを助け、あの美しい白黒の撮影も助けてくれた。デイヴィッド・リンチは、ある種の天才だよ。本当にね。
話者 1: なぜ、もっとご自身の名前を(クレジットに)出そうとしなかったのですか?
話者 3: 「メル・ブルックス」という名前を聞くと、観客はつい微笑んでしまうからだ。彼らは『エレファント・マン』のような重厚な作品を受け入れる心の準備ができていない。歌やダンス、ジョークを期待してしまうんだよ。だから、いわば「平穏を乱したくなかった」のさ。
・・・・・・・・※以上、メル・ブルックスへのインタビュー・・・・・・・・
話者 2: そして、ジョージ・ルーカスにあの3作目の『スター・ウォーズ』をオファーさせることになったのも、どういうわけか『エレファント・マン』だった。
話者 1: なぜだと思いますか?
話者 2: ジョージは本当は監督をするのが好きではないんだと思う。彼は、俳優たちがリラックスして仕事ができるような、相性の良い人物を求めていたんじゃないかな。当時は『エレファント・マン』が一種の話題になっていたしね。
話者 1: カラー(で撮ること)を検討したことはありましたか?
話者 2: 一度もない。
話者 1: 検討すらしないと?
話者 2: ああ。白黒には魔法があるんだ。過去に遡ったり、別の世界へ行ったりする時、白黒は非常に、非常に美しい。特有の感触がある。白黒で語られるべき物語というものがあり、それは明白だ。時間を遡る感覚を、実によく助けてくれる。
話者 1: 『エレファント・マン』でのアカデミー賞ノミネートには驚きましたか?
話者 2: 非常に驚いたよ。
話者 1: 『イレイザーヘッド』を作った時、キャリアをスタートさせようという野心はあったのですか?
話者 2: いやいや、とんでもない。キャリアをスタートさせるなんて意識はなかった。「映画ビジネス」なんて呼ばれるが、私に言わせれば、お金のことなんて最後に考えるべきことだ。一番最後だ。アイデアに恋をし、情熱を燃やし、そのアイデアを「映画」という形に翻訳しようと突き進む。それは最高に美しい旅なんだ。だから、キャリアなんてものとは一切関係がない。ただ「作ること」への愛なんだ。
話者 1: 愛ゆえにやるにしては、非常に高くつくものですが。
話者 2: その通りだ。だが、意志あるところに道は開ける。もっとも、資金を得続けるにはある程度の幸運も必要だし、あるいはそれを手に入れるために時間を費やす強い意志もいる。『イレイザーヘッド』は完成までに5年かかった。AFIの資金が底をついたから、シーンを撮るために金を工面し、中断し、また工面して撮る……完成までその繰り返しだった。
話者 1: つまり『イレイザーヘッド』制作中に考えていたのは、とにかく映画を完成させることだけで、その後のことなんて……。
話者 2: 何かの渦中にいる時は、他のこと、ましてや別の映画のことなんて考えるのは不可能に近い。ただこれを終わらせたいだけだ。それはもどかしいことでもあるが、一本の映画に一定期間留まり続けることの利点もある。より深く、その世界に沈み込んでいけるからね。
話者 1: なぜ『デューン/砂の惑星』を失敗作(disappointment)だと考えているのか、伺ってもいいですか?
話者 2: 『デューン』ではファイナル・カット(最終編集権)がなかった。私が作った映画の中で、それがない唯一の作品だ。厳密には『エレファント・マン』も持っていなかったが、メル・ブルックスが私に任せてくれた。だが『デューン』では、ファイナル・カットがないと分かっていたから、脚本の段階から(自分の信念を)安売りし始めてしまった。魂を売ってしまったんだ。それは徐々に死に向かうような、恐ろしくて、ひどい経験だった。
話者 1: 作ったことを後悔していますか?
話者 2: ああ。ただし「ファイナル・カットなしでは絶対に映画を撮るな」という教訓を骨の髄まで刻んだ点を除けばね。なぜ引き受けたのか、自分でもどうしてそうなったのか分からない。うまくいくと信じていたんだが、非常に世間知らずだった。間違った選択だったよ。
話者 1: あの作品には多くのファンがいますが。
話者 2: 良い部分もある。だが全体としては、無理やり詰め込まれた。当時は、興行的に1日の上映回数を減らさないために、最大でも2時間17分が限界だと彼らが判断し、映画はその長さになった。またしても「映画のため」ではなく「金」の都合だ。だから中身が圧縮されてしまい、作品を傷つけてしまったんだ。
話者 1: 「リンチ・バージョン」が存在するという噂が何年も流れていますが。
話者 2: いや、存在しない。他のバージョンなんてないんだ。素材はもっとあるが、それすらも(放置されて)腐敗しつつある。
話者 1: その次に『ブルーベルベット』が来て、それにはファイナル・カットがあった。
話者 2: ああ。給料を半分にし、予算も削らなければならなかったが、自由を手に入れた。失敗を経験すると、ある意味では清々しいものだ。あとは上がるしかないし、解放感が生まれる。だから、あれは美しかった。『ブルーベルベット』の仕事は本当に楽しかったよ。今日もある人に話したんだが、当時ディノ(・デ・ラウレンティス)が制作していた13本の映画の中で、私たちの作品は最も低予算で、最も注目されていなかった。だから誰の視界にも入っておらず、最後までずっと心地よい自由があったんだ。
話者 1: 執筆(脚本作成)はどうされているのですか?
話者 2: そうだね、アイデアを「捕まえる」んだ。脚本は非常に重要だが、それがすべてではない。アイデアを整理したものであり、多くのことが脚本の段階で練られる。だがよく言われるように、それは家の設計図なんだ。目的は「家」そのもので、設計図は素晴らしいものになり得るが、家そのものではない。映画も同じだ。脚本は映画ではない。だが、構造を見つけ、ある程度まで物事を整理する助けにはなる。 常に少しずつ進んでいく。全体像がいっぺんに見えることなんてないし、それがどう展開していくかは、誰にも予測できない。魔法のようなものだが、最終的には形になるんだ。
話者 1: 「誰にも予測できない」というのは、あなた自身も含まれますか?
話者 2: もちろん。理想的なのは……もし最初のアイデアがあれば、それが最も重要なものになる。それは釣りの「餌」のようなものだ。そのアイデアに集中すれば、他のアイデアを引き寄せてくれる。だが、釣りと一緒で忍耐が必要だ。どれくらい時間がかかるかは分からない。それでも集中し続け、糸を少し動かしていれば、アイデアは寄ってくる。
話者 1: いわゆる伝統的な意味での「論理(ロジック)」には、どの程度関心がありますか? あなたの作品の中には……。
話者 2: いや、私の映画にはすべて論理がある。論理にはとても関心があるよ。ただ、その論理というのは……抽象へと向かうものだ。抽象的でありながら論理的なもの、というのは存在する。 私は「直感」を心から愛している。私に言わせれば、直感とは「知性と感情が共に泳いでいる状態」だ。それは一種の「知得(knowingness)」だ。論理的であるということは、それが「正しいと感じられる」ことであり、筋が通っているということだ。ただし、そこには段階がある。
話者 1: 映画館で映画を見る人々は、結末までにはすべてが説明され、「ああ、こういう話だったのか」と納得することを期待していると感じますか?
話者 2: それ自体に何の問題もないし、何が起きているか分かるのは非常に満足感があるものだ。だが同時に、私は抽象を愛している。抽象を語る上での映画の力は計り知れない。人々が(抽象を苦手とするのは)直感が足りないのか、あるいは自分の直感を信じていないのか。映画館にはノイズが多いしね。 細部に至るまで正しくなければならないから、注意を払わなければならない。その世界に入り込み、自分の直感を信じる必要があるんだ。
話者 1: キャスティングにも直感を使いますか?
話者 2: 24時間365日使っているよ。キャスティングではまず写真を見ることから始める。「この人ならこれができる、この人ならこれだ」と。写真は時に人を欺くから、実際に会う必要がある。ただ会って話し、顔を見て対話するのが好きなんだ。 話しながら、彼らを(頭の中で)シーンに当てはめてみる。そうして役と結びついていく。だが、私は俳優に本読み(リーディング)をさせることは決してしない。対話を通じて感触を掴む。それこそが直感的なやり方と言えるだろうね。ある役のために呼んだ人が、話しているうちに別の役にぴったりだと分かることもある。
話者 1: 俳優との共同作業(コラボレーション)ですか、それともご自身の望むものを押し付ける形ですか?
話者 2: いや、コラボレーションだ。アイデアがすべてを支配している。映画のあらゆる部署において、オリジナルのアイデアに対して忠実であろうと努める。それはプロセスなんだ。例えばシーンに二人の俳優がいるとして、そのキャラクターを固めるためにリハーサルをする。どこかから始めなければならないから、まずはやってみる。 最初のリハーサルの後は、理想から遠く離れていることもあれば、近いこともある。もしオリジナルのアイデアの線上になければ、対話を始める。話し、話し、また話す。そしてリハーサルをする。この言葉は機能したが、こちらはダメだった、と。さらに話し、リハーサルを繰り返す。そうして少しずつ近づいていく。すると突然、彼らが(アイデアを)捕まえる瞬間が来る。オリジナルのアイデアそのものになり、何かを感じ取るんだ。それを覚えておくために、事前のリハーサルは重要なんだ。彼らの中にパッと灯りがつく。「掴んだ」と感じる瞬間があるんだよ。
話者 1: 音響担当のアラン・スプレットとは非常に親密な関係でしたね。
話者 2: 君は少しアランに似ているね。
話者 1: 彼にとって、サウンドデザインや音楽はどの程度重要だったのでしょうか?
話者 2: アランとの仕事は最高だった。私は音響や音楽について(技術的なことは)何も知らない。だから、それらを実現するために技術的に優れた人々と組む必要がある。アランは最初は技術者だったが、一緒に働くのがあまりに楽しくて、彼は私をさらに先へと押し進めてくれた。 素晴らしい共同作業だったよ。私たちが一緒に始めたのは『おばあちゃん』の時だ。カルヴィン・デフレインという、主に産業映画を作っていた小さな制作施設でね。そこには音響設備なんてほとんどなかった。リバーブ(残響)装置もなかったから、アランは空調ダクトに音を流して、反対側で再録音したんだ。何度も繰り返して、より長い残響を得るためにね。そんな風にして録音したんだ。最高の経験だった。 その後、結果的に『おばあちゃん』のおかげで私は学生としてAFIに受け入れられ、アランは音響部門の責任者としてAFIに迎えられた。親友の一人が全設備を掌握している状態で、いつでも好きな時に使えるようになったんだ。素晴らしい幸運だったよ。
話者 1: 音楽については?
話者 2: 私は個人的に「音(サウンド)」、効果音が大好きだった。心臓に響くような効果音や、より抽象的で効果音と音楽の境界を埋めるような音だ。だがアンジェロ・バダラメンティに出会うまで、本格的に音楽にのめり込むことはなかった。いつも言っているが、アンジェロが私を音楽の世界へと連れて行ってくれたんだ。私はミュージシャンではないが、その素晴らしい世界に身を置くことになった。どんどん深く関わるようになり、その世界への入門を許してくれたアンジェロには感謝している。
話者 1: なぜセットで音楽を流すのですか?
話者 2: そうだね、時々やるよ。ムードを作るためにね。セリフと一緒に音楽を聴くこともある。他の誰にも聞こえないようにね。時々カメラマン(DP)が聴くこともあるが、それによってペースが生まれる。その音楽が正しい感触だと分かっていれば……驚くべきことに、音楽なしで後からセリフのペースを確認すると、ほんのわずかにズレていることがあるんだ。だが音楽を聴きながらなら、常に正しい領域にいるかどうかが分かる。いつもではないが、あらかじめ音楽が決まっている時はそうしている。
話者 1: あなたの映画は、時に暴力的だと批判されることもあります。
話者 2: 作品の中に暴力はある。そして、物語というものは……。 しばしば言っているが、映画は私たちが生きる世界を反映するものだ。私たちは非常に暴力的な世界に生きている。たとえ状況が良くなっているとしても、暴力は厳然として存在する。生と死の葛藤に向かう物語は、人をより強く惹きつけるものだよ。
話者 1: なぜ『ストレイト・ストーリー』を撮ったのですか?
話者 2: 撮るつもりはなかったんだ。(パートナーだった)メアリー・スウィーニーが幼馴染のジョン・ローチと3年半もかけて取り組んでいたのは知っていたし、話も聞いていたが、全く興味がなかった。脚本が完成して渡された時もね。 だが読んでみたら、心に響くものがあった。「ああ、これは本当に美しい」と思ったんだ。映画ならこの「感情」を捉えられるのではないか、と。ある意味、それは一直線の、贅肉のない映画だった。繊細でね。ともかく、その感情に恋をしてしまったんだ。どうすればそれを捉えられるか、やってみようと思った。 (主演の)シシー・スペイセクは既に知っていたが、リチャード・ファーンズワースに会って一緒に仕事をしたのは、まさに完璧な体験だった。私を突き動かしたのは、あの作品が持つ感情だったんだ。
話者 1: 「これは本当のデイヴィッド・リンチ作品ではない」と言う人々には何と答えますか?
話者 2: そうだね、彼らが何を言わんとしているかは分かる。だが同時に、人間というのは多くのタイプのことを成し遂げる能力を持っている。結局は、自分が何に恋をするか、なんだよ。
話者 1: あなたの考える「リンチ的(Lynchian)」とは何ですか?
話者 2: 全く見当もつかない。
話者 1: あなたが「リンチ的」と言われる時、彼らは何を……。
話者 2: 知りたくもないね。私はただ、アイデアに恋をしていたいだけだ。恋に落ちるようなアイデアを捕まえること、そして何をすべきかが見えること。それが最もスリリングなことなんだ。
話者 1: ご自身のウェブサイトをお持ちですね。
話者 2: ああ、持っているよ。
話者 1: インターネットによって、表現の新たな次元が広がったと感じますか?
話者 2: インターネットは驚異的だ。それまで存在しなかったのに、突然現れた。それが正確にはどこにあるのかも分からない。エーテルか何かの場所にあるような、そんな奇妙な感覚だ。素晴らしいよ。突然、全く新しい機会、全く別の世界が飛び出してきた。おかげでコンピューターで色々と学ぶことになったが、それがとても気に入っている。
話者 1: そのサイトでは短編映画も公開していますね。
話者 2: いくつか短い実験的なものをね。
話者 1: 短編映画(Short Film)として捉えていますか?
話者 2: いや、例えば蟻がたかっているネズミの死骸の映像があって、それを撮って音を付けたものがあるが、私にとってそれは映画ではない。「実験」と呼んでいる。
話者 1: それらに価値を見出していますか?
話者 2: ああ。その過程でデジタル・ビデオ(DV)に恋をしたからね。今はデジタル・ビデオを愛しているし、フィルム(映画用銀塩フィルム)とはおさらばだ。
話者 1: デジタルに移行すると?
話者 2: そうする理由は山ほどある。私はフィルムを愛しているが、それは恐竜だ。フィルムにまつわるすべてが時代遅れだ。間もなく永遠に姿を消すだろう。音響の世界で先に起きたことと同じだ。アナログテープはもはや存在せず、手に入れることすら困難だ。すべてがデジタルになった。映像でも同じことが起きる。
話者 1: あなたにとって、フォトケミカル(光化学的)なプロセスは……。
話者 2: 恐竜だ。死んだ恐竜。完全に馬鹿げている。
話者 2: そう、馬鹿げているよ。傷はつくし、切れるし、汚い。ゴミだらけだ。同じプリントなんて二つとない。悪夢だよ。映写機のカタカタいう音まで聞こえる。まさに悪夢だ。
話者 1: ロマンチックですが。
話者 2: 私はただ……映画(シネマ)を愛している。愛しているが、もうあそこ(フィルム)には戻りたくない。
話者 1: デジタル・エフェクトは使いませんか?
話者 2: そもそもDVで撮れば、それはデジタルだ。だからすべてがデジタル・エフェクトと言える。私の作品は低予算だから、デジタル世界で何かを操作すれば、それは一種のエフェクトだ。だが使えるツールが膨大にある。アイデアに基づき、アイデアに語らせ続ける。ツールは山ほどあるんだ。Pro Toolsが音響にもたらした変革と同じで、コントロールできる範囲は信じられないほど広い。美しい世界だよ。 『イレイザーヘッド』のDVD制作に携わった時、ハイビジョンのマスターを作った。それを圧縮していくわけだが、圧縮によって悪夢のような映像になるんじゃないかと危惧していた。だが、徹底的にクリーニングし、微調整を施して、自分の試写室で新しいデジタル映写機で投影してみたんだ。小さなディスクをマシンに入れるだけでね。 すると、これまで見た中で最高の『イレイザーヘッド』がスクリーンに映し出されたんだ。音響も凄まじかった。白と黒のコントラストも美しく、ゴミ一つない。22フィート(約6.7m)の大きなスクリーンでも、実に見事に耐えうる画質だった。
話者 1: 『マルホランド・ドライブ』について手短にコメントはありますか?
話者 2: いや。(少し沈黙) 皆が知っている通り、あれはテレビ番組のパイロット版として始まった。長編映画に至るまでの経緯としては興味深いものだったよ。後からアイデアが降りてきて、オープンエンド(未完)ではなく、長編として自分に納得のいく形で締めくくることができたのは非常に幸運だった。
話者 1: ABC(テレビ局)がそれを拒絶したことは……。
話者 2: 私にとっては恩恵だ。とてつもない恩恵だよ。
話者 1: 『ロスト・ハイウェイ』はおそらく、あなたの作品の中で最も暗く、理解しがたい、精神的な要素が強い作品だと考えられています。ご自身でも暗い作品だと?
話者 2: 今振り返ると、あれは……私が夢中になっていたO.J.シンプソン事件の裁判から始まったものだと思う。殺人を犯しながら、どうやってその後も自分自身として生きていけるのか、という点に衝撃を受けた。そのアイデアが、バリー・ギフォードとの最初の打ち合わせに繋がったんだ。二人で色々と話しているうちに、何かがカチッとはまった。 そうして制作を進める中で、「心因性健忘(Psychogenic Fugue)」という医学用語があることを知った。心が自分自身を騙す現象だ。別の人間になり変わるか、あるいは自分からそれらの事実を隠すために必要なあらゆることをする。
話者 1: あなたの作品において「二重性(Duality)」は大きな役割を果たしていますか?
話者 2: ああ、二重性か。そうだね、イエスだ。
話者 1: それだけで十分(な回答)ですね。
話者 2: うん。
話者 1: 『インランド・エンパイア』については?
話者 2: 『インランド・エンパイア』は今まさに取り組んでいる映画だ。
話者 1: どのような作品に?
話者 2: それについては話さないよ。まあ、「窮地に陥った女性」についての物語で、DVで撮っている。まだ完成していないし、模索している最中だ。
話者 1: なぜ(『ワイルド・アット・ハート』の)リプリーはルーラを「ピーナッツ」と呼ぶのですか?
話者 2: なぜピーナッツと呼ぶかだって? それはバリー・ギフォードに聞いてくれ。
話者 1: 振り返ってみて、これを「キャリア」と呼ばなかったのは幸運だったと思いますか?
話者 2: いやいや。運命、あるいは運、何と呼んでもいいが、それが私たちの人生において大きな役割を果たしている。自分でも信じられないようなことが私には起きてきた。もしそれらが起きなかったら……どこからともなくやってくる、この多大なる幸運なしに、私たちはどこにいただろうか。 それは美しく、素晴らしいことだ。人生における役割は大きい。世の中には才能、あるいは偉大なる才能を持ちながら、全く芽が出ない人々がいるのを私たちは知っている。どうしてだろう? それこそが運命の役割なんだ。
話者 2: よし。
話者 1: 本当にありがとうございました。
話者 2: こちらこそ。ありがとう。
話者 1: ありがとう。これまでのあなたの仕事すべてに感謝します。見事でした。
話者 2: ああ、心から感謝するよ。
ディヴィッド・リンチによる映画『デューン』についての貴重なインタビュー
ディヴィッド・リンチによる1984年の映画『デューン』の決定的な言葉。
2006年1月13日に収録されたインタビューの抜粋。
以下、抜粋の翻訳だ。
(インタビュアー):
なぜ『DUNE』を失敗作(期待外れ)だと考えているのか、伺ってもよろしいですか?
(リンチ):
『DUNE』では、私にファイナル・カット(最終編集権)がなかったんです。
私が作った映画の中で、唯一ファイナル・カットを持てなかった作品です。
『エレファント・マン』の時も、厳密にはファイナル・カットの権利はありませんでした。
ですが、メル・ブルックスがその権利を私に預けてくれたんです。
しかし『DUNE』では、脚本の段階ですでに「自分に最終決定権がない」と分かっていながら、私は自分を安売り(妥協)し始めてしまいました。
自らを切り売りしてしまった。
それは、緩慢な死を迎えるようなものでした。
本当に、本当にひどい経験でした。
(インタビュアー):
作ったことを後悔していますか?
(リンチ):
はい。
……ただ、これによって「ファイナル・カットの権利なしに映画を撮ることは、二度と、絶対にしない」という教訓が、自分の中に強烈に刻み込まれました。
なぜあんなことをしてしまったのか、自分でも分かりません。
どうしてそうなったのか。
当時はうまくいくと信じ込んでいたんです。
ですが、非常に甘かった。間違った選択でした。
(インタビュアー):
……でも、この映画には多くのファンもいます。
(リンチ):
ええ、中には良い部分もあるかもしれません。
ですが全体としては、「詰め込みすぎ」なんです。
当時は、映画の長さは最大でも137分(2時間17分)でなければならないという決まりがありました。
1日の上映回数を減らして(収益を損なう)ことがないように、という理由です。
結局、映画のことではなく、「金」の理屈が優先されたんです。
そうして無理やりコンパクトに圧縮されたことで、映画そのものが損なわれてしまいました。
(インタビュアー):
何年もの間、あなたのバージョン(ディレクターズ・カット版)が存在するという噂がありますが、実際には存在しない……。
(リンチ):
ええ、存在しません。
別のバージョンなんてないんです。
(撮影された)素材ならもっとありますが、それさえも……腐りきっていますよ。
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インタビューの中で、リンチはディレクターズ・カットの存在を完全に否定している。
このインタビューは2006年時点だが、実はリンチは、2022年に一度、ディレクターズ・カットに挑もうとしていた。
結局その後、デューンに対するリンチの動向が伝えられることなくリンチは鬼籍に入ってしまった。
果たして、素材は腐りきっていたのか…。
それとも、素材は無事だったが、リンチの体調面や創作面から、やる気に繋がらなかったのか…。
天才を失った今、色々と悔やまれる。
なお、リンチはディレクターズ・カットの存在を完全に否定しているけれど、(リンチが関わらなかった)1988年のTV放映長尺版のスタッフは、「ワークプリントも使って長尺版を作った」と証言している。
更には、後年になって、この長尺版のフルHDも発売されている。
となると、ディレクターズカットは存在しなくても、一番最初に繋いだワークプリントは、絶対どこかに無傷で眠っていると思うんだけどなあ…。
それにしても、なんで僕はこんなにリンチ版デューンが好きなんだろう…。
自分でも不思議だ。
「マルホランド・ドライブ」や、「ロスト・ハイウェイ」など、よりリンチらしい(?)作品が色々あるのに…。
なお、リンチへのインタビュー全文はこちらで観られる:
















