「あなた方は地の塩である」(マタイによる福音)

 最近この言葉に強くヒットした。新約聖書にあるものだが、塩の役割と人としての役割をイエス・キリストが「山上の説教」で話した、信者にとってなじみのある言葉である。

 同じ説教の中で一緒に言っている言葉に「あなた方は世の光である」という言葉もある。

 最初はこの言葉にヒットした。自分を世の光として捉えるならば、何か与えられた役割があると感じたから。また、人はみな役割があり、その人を通して何かを得られる光があると思うことが、生き方の転換点となった。この言葉によって自分のその後の人生を導かれたと思っている。

 それから20年以上が経過し、同じ「山上の説教」の中のこの言葉に改めてヒットした。
  
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。・・・。」

 この中で「地」は私たちが生きているこの世界のこと。また、「塩」は様々な役割を持つ大切なもの。調味料として味付けになくてはならないものであり、食べ物を保存し、腐るのを防ぐ保存料、防腐剤としての役割、厄払いするという汚れを清める役割を持つ。
  

 また、塩はこの世にあって、生き物にとってなくてはならないもの。体の中の水分量を調節し、食べ物の消化を助けたり、細胞を守ったりして体の状態を整える大切なはたらきをしている。
 そしてまた、貴重な働きをしているだけでなく、その働きは地味で目立たず、誰の目にもとまらない。
派手さもなく、華々しさもないが、その働きは非常に貴重な存在、なくてはならないもの、それが塩。解説文にそうしたことが記載されていた。

 私は「地の塩」としての役割を持って残りの人生を生きていきたいと思った。

 これまで私は自分の人生を探し求めてきた。もちろん今でもこの先もずっとその途中であると思っているけれども。その中で自分に与えられた役割(教員・相談支援専門員・民生委員・父親など)を少しずつ自覚できるようになってきた。

 

 塩としての役割を自覚し、前面に出ることは控えながら自分の味(個性)を生かして今の仕事を行いながら人と接し、支えていく。そうすることで自分の立ち位置を定めていくことが大切だと感じる。

 ピリッと刺激のきいたトウガラシやコショウなどのスパイスでなくていい。メインの味付けでなくていい。でもなくてはならないもの。あくまで脇役であって良いのだ。

 自分の人生の中では、紛れもなく、自分自身が主人公。

 でも関係する他の人の人生の中では当然のことながら私は脇役。その一方でその方にとっての地の塩としての役割を持たせてくれるとしたら、最上の喜びである。

 最近こうしたことを考えながら日々を過ごしている私である。