これまでに生きてきた50数年の間に、私は何度か人生の分岐点を感じた。その時の選択によって、自分の生きる方向性が定まってきたのだろうと思う。
                                              
 大学選択、他の学校へ進学してたら今とは異なる人生を送っていたのかもしれない。異なる学部をいくつも受け、教育学部だけ受かった。しかも職業選択を卒業する時まで迷った。なんとか採用試験に受かったものだから小学校の教員になったが、長く続けることができる自信はなかった。他の職種になっていたら、別の人生が訪れていたのだろうと今でも考える。

 現在も生まれ故郷の地元に住んでいるが、地元を離れたいという意識は強かった。都会で生きていくという夢を持っていた。教員としてやっていけないという気持ちが強くなったら、思い切って転職し離れてみようという気持ちもあった。

 でも、結果として30年以上教員をやってきた。地元で生きてきた。その分岐点となった大きなものには「出会い」がある。

 初任校での2年目。仕事がはかどらず、教員として自信を失いかけた時、あるベテランの先輩の先生の励ましがあった。思い切りやってみようという気になった。この人に巡り合えなければ果たして教員を続けられたのだろうかと思う。また、続けていたとしても自分なりの情熱を持てたのかどうか・・・。亡くなった今でもこの方との出会いは今も大きな支えとなっている。それも分岐点。

 妻との出会いもそう、この人と結婚したから新しい人生が始まった、それも分岐点。2人の子どもに恵まれた。そうして30代を迎え、障害を抱えて誕生した二男の誕生時にまた人生の分岐点がやってきた。

 「障害児教育、障害者福祉」との出会いである。

 二男を通して障害者福祉を学ぶ中で、ある入所施設の理事長と出会った。福祉の現状と必要性を感じ、教員として生きていく中での指針となった。この時以来、「特別支援教育」の推進に自分の方向性が定まったのだった。大きな分岐点となった。支援学級を13年、特別支援学校2年(研修交流)、通級指導教室担当8年を自分なりに精一杯やってきた。

 40代後半になりわが子や教え子たちが自立していく中で、妻と一緒に考えることが出てきた。「教育すること」から「支援すること」、自分の福祉の視点への転換という分岐点である。そこから社会的な擁護を必要とする子どもたちのことを考えるようになり、養育里親を始めることとなった。

 また、障害のあるなしにかかわらず、子どもたちは教育の世界から離れ、社会へ出ていく。その際、様々な支援を必要とする。自分の人生の中でそれを見つけ活用できる人もいれば、相談に乗り、紹介するアシストが必要な人もいる・・・。そうしたことを考えていた時、50歳を過ぎて「相談支援専門員」いう仕事が私の目に留まったのだった。  

 相談支援専門員とは、支援を必要とする人やその家族に対して、福祉サービスに繋げたり、悩みをサポートしたりする職種のことで、この仕事は平成25年に厚生労働省が定めたものである。医療における「ケアマネージャー」とほぼ同じ役割となるものである。長年特別支援教育に携わってきて、資格を取る条件を満たしていることを知り、研修を受けた。取得してから2年後に教員を自主退職した。

 相談支援事業所を立ち上げ、単独で経営を開始してから3年目になった。現在の自分はこれまでの人生の分岐点を通って存在している。自分で選択しながらも、同時に与えられたものであることも感じている。でも、「支援すること」については、障害のある方のみにとどまってはいない。里親として里子たちや、民生委員・児童委員として社会的養護の必要な人の支援にも派生してきた。(それは分岐ではなく、並行し

た道ができ、走行車線が多くなってきていることとイメージしている。)

 今後また必ず新しい分岐点を迎えることになるだろう。

 分かれ道に遭遇した時、しっかりと自分の意志で立ち止まり、これまでをふりかえりながらその意味を考え、選択して進んでいく。それもこの先の人生の楽しみにしている。