人生の中で非常に調子の良い時がある。学業やスポーツ、仕事などに自信が付き、達成感ややりがいを感じたときなどに周りから認められ、褒められた時だろう。

 そういう時期を迎えた時、心は「有頂天」に達している。「有頂天」とは、全ての世界の中で最上の場所にある(頂点に有る)ことを指す仏教用語。

 これまでの人生を生きてきて、自分の中での有頂天を感じたことが何度かある。その時は周りの人に対して「優越感」を感じ、「自分は素晴らしい」と勝手に思い込むことが多かった。もちろん「井の中の蛙」なのだが、一番上の頂にいるような気がして、そこから見下ろすことによって、天下を取ったような感覚に陥ってきた。
                                                               
 昭和に生まれ、「競争主義」という比較される中で生きてきた。「負けてはいけない、勝った者が偉いのだ。」という、差別意識とも受け取れる考え方を植え付けられていた。平成になっても、私だけでなく「勝ち組」「負け組」という考えができ、多くの人がそういう価値観の中で生きてきたのかもしれない。

 クラスの中で良い点を取った。とか、得意としていた陸上競技で良い成績を上げたなど、そうした自分を感じた時、同時に有頂天になり、「自分が一番!」という錯覚に陥っていた。こうした経験は自己肯定感は高くなったことは確か。でも、それが正しいとは今では思えない・・・。
 
  ただ、頂点にいるということは、上がなく後は落ちていくことも想像できる。

 「しっぺ返し」ではないが、私には有頂天になりすぎた後には下り坂、特に転がり落ちるようなことを経験してきた。「これでうまくいったから同じようにやればいい」と成功したことを過信して同じようにしていたら、全く通用せず、かえって大失敗につながることもあった。自分の人生の中で、特に対人関係でのこと、教員としての自分の仕事に対する過信など・・・。

 有頂天に感じていると自覚するとき、その時こそ更に上を目指すよりも、その頂を少し崩して拡げ、安定した大地にしていくことが大切なのだといつの日か自分なりにイメージするようになった。慎重に基礎工事をしていないと凹凸ができたり、思わぬ落とし穴ができていたりしていることも想像しながら・・・。

 自分なりによかれと思って進めてきたことも、「そう来たか!」とひっくり返されることもある。でも、それも必ず意味のあること、と受け取っている。それを試練として自分なりに受け入れながらクリアしていくことが大切なことなのだと思う。

 「人生は山あり谷あり」とはよく言ったもの。「有頂天」を感じ、思い上がることことなく、常に自分なりにしっかりと地固めをしながら、予想される来るべき試練を受け入れ、自分の財産にしながら人生を楽しんでいきたいもの。

 最近こうしたことを考えながら、かなり勝手だが、充実感を持って人生を生きている。毎日いろいろなことがあり、大変だと感じることも多いが、その一つ一つを何とかポジティブに自分なりに乗りきっている。

 

 「有頂天」になってしまうことを自戒しながら、日々を楽しんで生きていきたい。