ふと、少しコントロバーシャルなので、

この文章を投稿しようかと迷いましたが、それでもやっぱり載せたいと思いましたので載せることにしました。



コロナ禍を、人生のどのタイミングでどこで、どのように過ごしたのかというのは非常に大きな問題だろう。
あの災禍の中、「しかしこれはチャンスだ!うまく活用できる!」と考えることができる環境や条件にいた場合と、
コロナ禍によって、「こんなはずじゃなかった…」と自分が予想していた期待や希望を打ち砕かれざるを得ない環境や条件にいた場合とでは全く意味が違う。


私のような3年働いて今年大学院に来た人と、ストレートで学部から上がってきた大学院の同級生とでは明らかに状況が異なる。



彼/彼女らのような「「学部の間ずっとコロナ禍だったという人たち」」



私のような「「学部時代の最後の1年をコロナ禍で終えた私たち」」。






大学院の同級生に、「自分の過去の経験談」を話すたびに、「自分はコロナ禍じゃなかったからこの経験ができたんだ」と内省する。


自分が積み重ね、身に着けてきた能力、知識、経験、実績自体が、そもそも「コロナ禍ではないこと」が前提条件として成り立つ。

対面のグループディスカッション・ファシリテーション、旅行を通じてのコミュニケーション・失敗の経験...etc...。

確かに学部時代の最後の1年はコロナ禍だった。
だがそこには、既に構築された人間関係(助けてくれる人たち)がいた。
コロナ禍で何もかもがオンラインになったとしても、「じゃあこの環境下で何ができて何ができないのだろうか?」と電話やZOOMで議論してくれる人がいた。
まさしく、「逆境こそチャンスだ」と考えられる環境にいたのだ。

確かに就活も突然オンラインになり、今までと状況も違う。
経済不況で就職困難度を上がったという話も聞く(実際に就職倍率の変化は業界によって大きな差があったというのだが。)。
だが、「就職希望者」と「受け入れ側の企業」では感じる困難がまるで違う。

そう、

私たちには適応するだけの時間も余裕もあったのだ。



一方で、学部の間ずっとコロナ禍だった人たちは、
ずっとオンライン授業で同級生と対面で会うこともあまりなく、サークル・部活動は縮小し、遠方の大学に進学した人たちは、一人暮らしをする意味がないのでずっと実家にいたままだ。
いやもちろん、こうしたずっと学部の間コロナだったからといって「やる人はやはりやる」。
例えば、自分で本を読んだり、Youtuberになって稼いだり、IT技術を身に着けたり、オンライン交流会を実施したり、、、
やる方向性が違うだけで、結果を出す人は確かに結果を出しているかもしれない。



だが、明らかに状況は違う。



コロナ禍があけ、少し前までは

「あれはいったい何だったんだろうか」

と思っていた。


でも今は違う。

「あれは"今"何をもたらしているのだろうか」



「青春は密なんです」というある監督の言葉が頭をよぎる。