中井先生が亡くなられて4年になる。中井久夫のいる世界が終わり、それでも世界は存続し4年が経ったということである

ウィトゲンシュタインやヴァレリィに会ったことはないが、中井久夫に会ったことはある。そういう表現が許されるほど、中井久夫は二人に劣らぬ天才だと思う。

私は中井久夫が名古屋市大に助教授として赴任する前、東大分院神経科病棟医長(講師)でおられた時の最後の研修医です。一年未満ではあるが、中井先生の弟子の末席を汚す者でした。中井久夫氏と呼ぶことは、既に歴史上の人物である中井久夫を過小評価することになりますから、ここでは中井あるいは中井先生と呼ばせてもらいます。中井先生は弟子にした覚えはないと言われるかも知れませんが…。


既に、未見の人として、その著書から中井を論ずる人が多くなった今、私が中井先生と直に接した記憶の断片を書きとめておくことには、先生の偉大さを残す一史料として意味はあるのではないかと考えます。現に、この度、私が某病院に入院した時、私が中井先生の弟子であると漏らした直後、部長先生やナースが「中井久夫の愛読者である。どんな人でしたか?」と立て続けに病室にやってこられ、改めて中井先生の読者の広がり、浸透ぶりに思い至ることになった。これが、この一文投稿の動機にもなっています。



東大分院は私たち医学科の学生が臨床実習で訪れることは稀で、むしろ保健学科の学生のフィールドだった。中井先生の名声は彼らを通じてもたらされた。「東大分院神経科には安永(科長)さんと中井さんという二人の天才がいる」と言われていた。折からの大学紛争で本院の精神科は分裂し、臨床の場として不安定だった。


私は分院神経科を志望し、神経科長の面接を受けようと病棟を訪ねた。そこにたまたま病棟医長である中井久夫先生がおられた。それが中井先生との出会いである。その時の先生の私に向けられた、先入観のない公平無私の眼差しを忘れることはできない。初診の患者さんが、あの眼差しで迎えられれば、なるほど、「この医者はありのままの私を受け止めてくれる」と心を許すはずだ。先生は「若い時は、検事か刑事に間違われた」と書いておられるが、そうではなく大天使ミカエルもかくやと思わせる目だった。

科長は外来診療中であったが、かなり離れた外来まで先生みずからに案内して下さった。今思えば、一学生を大学講師が案内するとは畏れ多いことだ。先生はそれを自然にやられる方だった。


入局後、様々な形で指導を受けることになるが、直接指導いただく貴重な機会もあった。ほんの数例を上げれば、重症のチックの児童の治療に行き詰まり、先生にご相談した。さっとカルテに目を通し、特別な時間を作ってくれ、その子を相手に2時間にわたり、風景構成法、投影法、スクイッグル法、HTP変法など全ての絵画療法を行って見せてくれた。治療と研修医の教育を同時に行ったのだ。終了時、チックは完全に消失していた。


先生の考案された『風景構成法』も、その際入局早々先生ご自身から教示頂いたわけだが、「川、山、田、道、そしてhouse,tree,person ですね」。その時は、人によって描画がそんなに変わるものかなとも思いもありながら、慢性の統合失調症の患者さんにやってもらった。衝撃だった。患者さんは画用紙の上隅から順に川、山、田、道、HTP を並列した。私は患者の心的世界を初めて垣間見た気がした。


年末に入院した患者さんを先生指導下に担当したことがある。先生は私の目の前に、その病気に関連した原書を5冊積まれ、「正月休みで読めるでしょ」と事も無げに言われた。無論私は中井久夫ではないから3頁しか読めなかった。


ある神経症の患者さんが中々治らず、先生にご相談した。一度の診察で「これは神経症の陰にてんかんが隠れている」と言われた。まさかという気持ちがあったが、脳波をとると、異常所見がはっきり出ていた。服薬変更で患者さんは直ぐに改善した。


朝、出勤時、乗り合わせたバスの中で中井先生からゲラ刷りの分厚いコピーを頂いた。『精神分裂病の寛解過程について』、当時の精神医学界に衝撃を与えた実質的な先生のデビュー作である。一読して光彩陸離、臨床経験ゼロの私に患者さんの世界が生き生きと現れた。それ迄読んだ如何なる医学論文からも得られない体験だった。


私が国試に合格したばかりという理由で、科長からブラジルからの留学生の国試勉強の指導を命じられた。彼女と二人医局で国試の問題集を広げるが、理解できない点が多々ある。私達は中井先生が医局に顔を出す時を待ち構えていて、数少ない機会を逃さずまとめて質問した。先生は、精神科は無論、内科、皮膚科、眼科など全ての科に亘り、深い知識をお持ちだった。「先生、prurigo って何ですか?」、黒板にさっとスペルを書き「掻痒症やないですか」、という具合である(私が無知だったということか)。このブラジルからの留学生という方は『中井久夫集』にも登場するが、私も彼女の「勉強をみた若い人」の一人である。解説を書いている最相葉月氏が「中井の記憶力は超人的」と書いているが、その通りで、「コンラートの『Die beginnende Schizophrenie』のどのページも、そのまま目の前に再現できる」と直接うかがったことがある。「外国語の単語は色で覚える」とも言っておられた。ただ、このブラジルの留学生の記述には一ヶ所、先生の記憶違いがあるが、それを見つけたのが私の密かな自慢である笑


中井先生はダヴィンチ的な天才であり、一分野を究めるという専門学者ではない。時間の6割を診療に3割を精神医学研究に充て、残りの1割で様々な分野を渉猟される。その1割にウィトゲンシュタインの独英対訳や大塚経済学や新作童話までもが含まれていた。小児の診療では童話の話で会話が弾んでいた。当直の夜は、『文芸春秋』を読まれていたと思う。「精神病棟はダムに似ている」は、『文藝春秋』にヒントを得たと言われていたような気がする。


東大分院には医局員各自が持ち回りで発表をする「研究会」があった。普段は活発な議論が交わされるのだが、中井久夫先生発表の時には私達は一言も聞き漏らすまいとただただ傾聴するのだった。分厚い洋書を2冊広げ、イラストなどを示しながら「魔女狩り」などについて教示されたが、それが後に『西欧精神医学背景史』として結実する。その著書は『アジアの100冊』に選ばれた。絢爛たる講義に目を見張るばかりだったが、最後に「わたしの背景史はグリージンガーまでです」と言われた。当時は、それが先生の謙遜であることにすら気づかなかった。


先生の天才としてのエピソードは数えきれぬ程ある。医局で数名で雑談をし、中井先生は雑談の中心にありながら、同時に一つの論文をその場で書き上げた。 この時、聖徳太子が7人の話を聞き分けたという逸話は事実に基づいていると知った。


中井先生が当直の日は、医局の灯りが夜遅くまで灯っていた。医局員が中井先生と話をしたくて帰らないのだ。時には、そのまま翌日の勤務が始まることもあった。中井先生当直の夜、医局はさながら梁山泊のようだった。


中井久夫先生は謙遜の人であるから、自慢げに語ることは一切なかったが、ウィルス研究でも一流の成果をあげられている。ご自身の名前のついたウィルスがあると伺った。ただ東大ウィルス研には両価的 ambivalent であるようにお見受けした。先生の才への妬みから嫌な思いもされたようだと当時も感じたが、『中井久夫集』を読んで納得した。一方では、京大には親和的で、医局のルールを取り決める際には「京大方式」を紹介、推奨されたりもしていた。


太宰治の『斜陽』に「機に叶う言葉は銀の彫り物に金のリンゴをはめたようだ」とあるが、まさに中井先生の言葉がそうだった。入局早々挫折しそうな私に「医者は人工衛星と同じ。最初の3年でドーンと打ち上げて、あとは周回軌道を回るだけだね」。勤務の帰り、一人夜の京王線で先生のこの言葉が暗い窓に浮かび、いかに救われたか。土居健男氏が「始め皮膚ら科医だった」と言われると、「skin から skinship への転向ですな」。「土居氏は苦笑いだったがね」と。 生意気な若い医師をたしなめるには「君の言葉には心胆寒からしむるものがありますね」。寒くなったのは若い医師の方だろう。


中井先生は当時流行りの実存哲学を冷やかな目で見ておられたと思う。一方、かねてから翻訳が出る前のウィトゲンシュタインに注目しておられた。ある医局会で若手の医師がハイデガーを熱く語り、皆辟易していた時、中井先生が一言、「ハイデガーはロマンチックな哲学だと思いますよ」。水を打ったように静まり返った医局で私達はウィトゲンシュタインを思った。


病棟の「回診」は週1回食堂ホールに入院患者さんと医師が全員集まっての茶話会形式だった。 当時視聴率50%を越える朝ドラ『北の家族』が話題に上った。中には知らない患者さんがいて、戸惑いを見せると、すかさず中井久夫先生がさりげなく「北の家族?何ですかそれ?」と助け船を出し、雰囲気を和ませた。先生はそういう細かい気配りが自然にできる方だった。患者との忘年会では影絵劇が恒例になっていたが、中井先生は率先して道化的役を買って出た。中井先生自身は、自分をクレッチマーの循環型に分類し、実際、見方によれば躁鬱気質と言えるかも知れない。だれとも別け隔てなく接したし、そうすることが好きだった。入局そうそう私は尿管結石で分院に入院することになったが、一番に見舞ってくれたのが中井先生だった。その際、付き添いで母がいたのだが、後に週刊朝日が『精神医学の異才』として中井特集を組んだ時、母はそれを神棚に飾った。


ある日、『天才の精神病理』の共著者飯田真氏と中井先生が医局におられた。その時飯田氏が何と言ったかは覚えていない。中井先生は飯田氏に「私はあの本のため先生宅にお邪魔していた、あの頃が一番楽しかったですよ」と訴えかけるように言われた。中井先生が医局を後にした時、飯田氏は私に「ああいう頭脳は年を取るとどうなるんだろう」と呟いた。飯田氏は中井先生の頭脳に驚異の念をいだいていたのだと思う。


中井先生の分院時代は三十代であるから、その当時のご様子は、わたしが分院に入局した後、先輩医師から伺ったものになる。事実、年齢の近い医師は「中井さんが一番脂の載っていたのは三十代だった」と言い、当時の先生のエピソードは多彩であっだ。「風呂に入っても、天井から籠を吊るし本を入れ、読書していた」。「病室のベッドと同じ高さのソファーを持ち込んで泊まり込んだ。患者と同じ高さの目線でないといかんと言っていた」。これは中井先生がシュヴィング的手法と呼んだ、患者に寄り添うという治療だ。「中井さん、牛乳を立ち飲みして、吹き出して婦長の顔面に吹きかけたのよ」。「後の顛末はご想像に任せる」と話す中年の女医さんの笑顔は、中井先生の憎めない性格を表していた。東大分院には東京女子医科大学からの入局者が多く、中井先生は彼女らに絶大な人気があった。土曜日の昼は中井先生作のパスタでの女子会が恒例になっていた。彼女らは中井先生とデパートに行き、箱庭のアイテムを買い揃えたことなどを懐かしく語った。一方では、治療に関しては病棟医長として若手医師のスタンドプレーには厳しかった。その若手に「私は病棟医長ですぞ!」と語気を強めることもあったらしい。


中井先生の経歴が精神医療や震災の心のケアと結びつけられて紹介されるのはむしろ本人を矮小化するような違和感を覚える。先生は「患者に食わしてもらってる」から治療したのであり、震災で人々の苦しみを目の当たりにするからケアしたのだ。仮に、先生が精神科医にならず、震災がなければ、ヴァレリィかラッセルのような人物になっていたと思う。


ある土曜日、外来のベンチに当時名市大教授だった木村敏氏が座っていた。中井先生に会いに来たのだ。中井先生は同僚の女医さんに「木村教授が来ておられる。どこがいいですかな?」。女医さんは「椿山荘にしたら」。中井先生は嬉しそうだった。先生も人の子なんだと思った。


程なく先生は名市大助教授として東大を去った。科長は寂しさから「名古屋に分院ができる」と言った。それを聞いたら、名市大の先生方が怒るだろうなと思った記憶がある。


中井先生は名古屋時代を人生で最も楽しい時代と言っていると著書の解説にあるのを見て、私は「やっぱり」と思った。東大分院時代ではなかった。東大分院は東大卒と他大卒者で構成されていて、それが人間関係に影響していたのは事実だ。中井先生はきっと「東大卒の医者はお山の大将でないと気がすまない人間である」と見抜いておられたんだと思う。


東大分院は中井久夫先生が名市大に移られてから、医局員が潮を引くように去っていき、先生が病棟医長の時は患者一人に担当医医師が3人ついていたのが、医師一人が患者3人を抱えるようになった。 そして、2001年、「目白台の分院」は廃院した。