浅田真央 究極のプログラムへ | フィギュアスケート研究本

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http://number.bunshun.jp/articles/-/770201

浅田真央は決して言い訳をしない。
最後の全日本も、笑顔で魅了する。


野口美惠 = 文
text by Yoshie Noguchi
photograph by Asami Enomoto

 あの浅田真央が、もう最後の全日本選手権を迎えるなど、誰が信じられるだろうか。

 '05年のGPファイナル優勝で劇的なデビューをしてから8年、世界のトップとして戦い続けてきたのだから選手生命は十分に長い。それでも、何年たっても変わらない可憐さからか、最高のパフォーマンスからか、浅田は永遠に天才少女のままファンを魅了してきた。

 浅田は、忍耐の選手だ。どんなスランプやトラブルが起きても言い訳をせず、ポジティブな言葉しか口にしない。不調な時はどんどん言葉数が少なくなり、「練習で自信を付けたい」「ノーミスの演技をしたい」と同じ言葉を繰り返す。「実は」と苦悩を打ち明けるのは、いつも結果を出した後だ。そしてファンは「そんなに大変なことがあったのか」と後で知る事になる。

 周囲を驚かすほどの忍耐力を初めて示したのは、17歳で世界女王になった'08年世界選手権だった。1月にラファエル・アルトゥニアンと師弟関係を解消し、3月まで独りで練習しての世界選手権。しかも2月には足首をねんざしており、スケート靴の紐が結べないほど腫れ上がっていた。

 精神的にも肉体的にも追い詰められた試合で、さらにフリー演技冒頭のトリプルアクセルで、跳ぶ前にすっぽ抜けて転倒し壁に激突。全身を強打しながらも、すぐに起き上がるとその後の演技はノーミスでまとめ、優勝した。

変わらぬ優雅さと、越えてきた数々の困難。

 一夜明けて浅田は、師弟関係の解消とねんざについて告白すると、

「もう追い込まれるのには慣れました。最後まで諦めないで良かった」とサラっと言ってのけた。その左半身は青アザだらけだった。

 この時から、浅田の強さの秘訣は「逆境力」と言えるような出来事が続いた。見た目の優雅さはまったく変わることはなかったが、困難が心を強くしてきた。

 バンクーバー五輪前はタチアナ・タラソワに師事していたが、普段は国内で自主練習する形式をとっていた。気づいた時にはジャンプフォームが自分流になり、自分のジャンプを見失っていた。それでも、その時点では誰にも不安は打ち明けず、国民の期待を一人で背負って五輪に挑んだ。そして誰もが知る通り、トリプルアクセルを計3本成功。別の不運なミスがあり銀メダルとなったが、十分な完成度だった。

 そしてやはりシーズンオフになってから、こう打ち明けた。

「五輪前はジャンプが崩れていて、自分でも不安でした。昔のように軽々と跳べなくなっているし、成功するかどうかイチかバチかで跳んでいたんです。だから今シーズンはちゃんとコーチについて1から習いたい」

 五輪では、1本も成功しなくても不思議では無いほどの状況だったと明かしたのだ。

ジャンプフォーム改造中、一言も不安を口にはしなかった。

 '10年秋からは、佐藤信夫コーチのもとで、滑りやジャンプフォームの大改修に着手した。2シーズンはジャンプフォームが固まらずに成績も伸び悩み、浅田のスランプは大問題かのように報じられた。本来、フォームを直すには数年かかるのが当然なのだが、言い訳はせず沈黙に徹した。ただひたすら「いま信夫先生とジャンプを修正している。少しずつ良くなっている」と繰り返した。

 好調を取り戻したのは昨季からだ。

「信夫先生とやってきて、最初は本当にこれでいいのかな、私がやってる方向は合ってるかなと半信半疑で不安もありました。でも最近は先生の求めているスケートが分かるようになりました」

 と笑顔を見せた。不調だった2年間は「半信半疑」などという言葉を打ち明けたことは全くなかった。

疲労の限界と痛みの中で手にしたファイナル優勝。

 好調だった昨季も、ちょっとした逆境を体験した。GPシリーズ2連勝と波に乗っていたものの11月から腰痛になり、佐藤コーチから練習を止められたが、無理に練習した。腰痛を悪化させて臨んだ'12年GPファイナルの試合当日、あまりの激痛に浅田自らが「腰が痛くてジャンプがコントロールできない」と打ち明けた。

 これまでだったら、独りで逆境からパワーを得ていた浅田だったが、その日、背中を押したのは佐藤コーチの言葉だった。

「こんな状態でもどれだけ自分ができるか、『どんなもんだ』っていうのを見せてきなさい」

 その言葉に納得し、前向きな気持ちを取り戻した浅田は、トリプルアクセルには挑戦せずプログラム全体を美しくまとめる演技で4年ぶりにファイナル優勝。優勝を決めたあとで腰痛を周囲に打ち明けると、こう話した。

「もう22歳になって身体も子供の時とは違う。疲労の限界が痛みになって出てくるようになっていたんです」

 痛みを抱えながらもパワーを発揮する。精神的な強さは健在だった。

 そして迎えた集大成の今季。シーズン初戦からトリプルアクセルを解禁し、まだクリーンな成功はないが挑戦し続けている。

思わず「悔しい」という言葉が漏れた。

 スケートアメリカでは、ショートは片足で降りたものの、フリーでは転倒した。

「初戦からトリプルアクセルに挑戦できる状態で試合に臨んでいることが、これまでと違います。練習では跳べています」と強気発言。

 NHK杯では、ショート、フリーとも着氷でバランスを崩した。

「とにかく練習を続けていけば出来る、という感触がある。練習でもっと100%の力を出し切ることで、試合の1発に持っていけると思う」と、さらなる練習を誓った。

 GPファイナルでは、とうとうショート1本、フリー2本の計3本に挑戦した。ショートは回転不足判定ではあったが、最高の感触で着氷。ところがフリーは転倒と両足着氷と、力を発揮できなかった。

「(フリーでは)まだ自分が思うようなトリプルアクセルを初戦から出せていないけれど、GPファイナルはフリーで2回できるチャンスなので自分の最高レベルのことに挑戦しようと思いました。2回入れるシミュレーションがもっと必要、というのが今の気持ち。悔しいです」

 思わず「悔しい」という言葉が漏れた。だからこそ、期待していい。逆境こそが彼女のパワーになる。

 これから全日本選手権、そしてソチ五輪と続く。トリプルアクセルがどんなに困難であろうと、浅田は黙って挑戦するだろう。そして長い戦いを終えた時、彼女はどんな苦労話を、そして強い心のさまを打ち明けてくれるのか。23年の集大成の演技は、もうすぐそこまで来ている。

 浅田は常にポジティブな言葉しか口にしない。


GPファイナル浅田の演技に対して、客席からは喝采とともに多くの花が投げ入れられた。笑顔の裏で、彼女はどれだけの困難を乗り越えてきたのだろう。
photograph by Asami Enomoto

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/figureskate/all/1314/columndtl/201312190002-spnavi

真央と佐藤コーチ、究極の一瞬目指して
トリプルアクセル3本への青写真


野口美恵2013年12月19日 12:51 スポーツナビ

維持する事の難しさ 女子のトリプルアクセル

 浅田真央(中京大)のトリプルアクセルへの挑戦が続いている。GPファイナルでは、いよいよショート1本、フリー2本を跳び、「今できる最高のレベルに挑戦した」と本人も自負する。しかし今季、完全な成功はまだない。トリプルアクセルという大きな頂きに向かって、いま浅田はどこまで登ってきたのか、そして五輪での成功は?

 浅田が鮮烈なデビューを果たした2005年12月のグランプリファイナル。15歳になったばかりの少女は軽々とトリプルアクセルを成功させ、名だたるシニア勢を抑えて優勝した。多くのファンは浅田がまだ跳べなかった時代を見たこともないし、彼女にとってトリプルアクセルは何歳になっても変わらず跳べる“べき”もの、と感じてしまうのも無理ないだろう。そこが、彼女を取り巻く誤解のスタートでもある。

 歴代女子で、公式大会でトリプルアクセルを成功させた選手は、88年に初成功させた伊藤みどり以降、トーニャ・ハーディング(米国)、中野友加里、リュドミラ・ネリディナ(ロシア)、そして浅田の5人のみ。まして数年にわたって成功させたのは伊藤と浅田だけだ。女子にとっては、1度でも成功すれば歴史に刻まれ、成長に伴って維持できるようなジャンプではない。

 それでも浅田は、挑戦を続けた。4年前、19歳のバンクーバー五輪ではショート1本、フリー2本を成功。その後ジャンプ全体のフォーム改造に着手したためトリプルアクセルの改善には時間がかったが、今年2月の四大陸選手権では見事に成功させた。


集大成のソチ五輪、トリプルアクセル3本成功へ浅田真央の挑戦は続く【坂本清】

集大成の今季「何が何でも挑戦」

そして五輪シーズン、自身が集大成と決めた今季を迎える。浅田は、
「アクセルに惑わされたくはないんですけれど、最初に決まるとやはり自分も乗ってくるし、自分の強みではある」とトリプルアクセルを跳ぶ意義を話し、初戦から挑戦した。

 スケートアメリカでは、ショートでは認定はされたもののフリーレッグがわずかに氷上をかすめたかマイナス評価に、フリーは転倒した。
「やはりシーズン初戦からトリプルアクセルを挑戦出来る状態で試合に臨んでいるのが、跳べなかった時期とは違います。(フリーでは)あれだけ大きく転倒するとリズムも崩れてしまい、『もう失敗したくない』という気持ちがでたのと、スタミナも切れてしまいました。転倒した後をどうカバーするかが今後の課題です」。
と浅田。佐藤コーチも
「今までは、色んな状況を見てマズイなと思ったら『やめなさい』と言った時期もあった。今は結構良い感じにできているので、数少ない競技会でどんどんやらせたいと思っている」
という。昨季までは調子によってトリプルアクセルを回避することもあったが、今季は「何が何でも挑戦」がベースであることを明かした。

 続くNHK杯では、ショート、フリーとも着氷が乱れた。佐藤コーチは
「他のジャンプについてはもっとスピードが欲しいが、トリプルアクセルに関しては彼女の体力に一番合ったスピードでいかないと。練習ではだいぶ固まってきているが、やはり本番になると興奮状態で普段よりスピードがあり、わずかに身体が(左に)フラれてしまう」と冷静に分析した。

 本番でのミスの原因が掴めると自信がついたのか、浅田は守りに入るどころか攻めに出た。
「練習での調子は上がっているし、(フリーで)2本入れても大丈夫なんじゃないかな、と感じるようになりました。もっと上のレベルを練習することは楽しいし、試合で決められたらもっと最高だから」
と考え、NHK杯に“ショート1本、フリー2本”の最高レベルの組み合わせでの練習を開始したのだ。グランプリファイナルまで、練習日数としてはわずか2週間だった。


今季初戦のスケートアメリカからトリプルアクセルに挑戦した浅田だったが成功とはいかず……【坂本清】

どれほど高い壁かは2人にしか分からない

 そのグランプリファイナル。ショートでは、片足で着氷に成功したが、フリーは転倒、そして両足着氷となった。無茶な挑戦をしたのでは、という周囲の雰囲気を感じながら、浅田は言葉少なにこう言った。
「(フリーで)1本目で転んで、落ち着いて2発目に行こうと思ったけれど、大きな転倒をしてしまうと次が難しかった。1回目の転倒ってすごく大きくて、体力も奪われてしまいますし、まだまだ(2本を想定した)シミュレーションができていない中での挑戦だったので、練習が必要です」

 フリーで2本への挑戦について、佐藤コーチはこう戦略を明かした。
「決して競技会をないがしろにしている訳ではないが、挑戦してみないと分からない事もあるので今回は取りあえず挑戦してみるという判断をした。本人には、挑戦したい強い気持ちがある。それを取り上げるのはテンションにも影響するので、危険性とのバランスを考えた時に、とりあえず今は何が何でも挑戦する方向。2本入れると、エネルギーを使った、(演技後半が)どうなるかが読めない部分がある。慎重に検討しなければならないと私自身は考えている」

 そして佐藤コーチは、浅田を守るかのように、こう付け加えた。
「女性にとってのトリプルアクセルというのは能力的にとんでもなく難しいものだなというのを痛感させられた」
 トリプルアクセルは皆が思うよりも難しいのだ、というちょっと弱気の言い訳。彼女自身が決して口に出すことができない葛藤を、まるで代弁しているかのようだった。

 浅田が公式大会で初成功させたのは04年のジュニア時代。そこから10シーズン目の今なお跳んでいることが、驚異的なのだ。23歳のいま、計3本入れることがどれほど高い壁かは2人にしか分からない。意欲を支えにする浅田と、淡々と戦略を練る佐藤コーチ。2人は究極の一瞬を目指す。

<了>


佐藤コーチと二人三脚で“究極の一瞬”を目指していく【坂本清】

http://sankei.jp.msn.com/sports/news/131219/oth13121922510021-n1.htm

真央らの成長見続け 日本スケート連盟専任トレーナー 加藤修さん

2013.12.19 22:48 産経ニュース

 慌ただしい1日だった。福岡市で行われたフィギュアスケートのグランプリ(GP)ファイナル女子フリーが行われた12月7日。日本女子で唯一出場した浅田真央(中京大)が腰痛を抱えていたからだ。

 日本スケート連盟の専任トレーナー、加藤修は、午前中に浅田の腰や両足を中心に約1時間のマッサージを行った後、公式練習後の午後にも同じだけのマッサージに時間を割いた。

 選手は通常、公式練習で跳んだジャンプの感覚を大事にするため、試合までに体を触られることを嫌がる。だが、このときの浅田は体のケアを優先した。痛いマッサージが苦手な浅田に対し、じっくりと時間をかけて患部をほぐした。

 「違和感がある」と訴えてきたのは、現地入りした直後の3日。加藤は浅田の個人トレーナーと連携し、可能な限りコンディションを整えた。結果は連覇達成。報われた瞬間だった。

 自身も大学時代はフィギュアスケートの選手だった。卒業後はスポーツウエア会社に就職したが、希望していたスポーツの現場とはほとんど縁がなかった。2年半で辞めて家業の洋画材料店を手伝いながら、フィギュアスケートに関係した仕事を探していたところ偶然、スポーツ新聞の野球欄に目がとまった。巨人のトレーナーの談話だった。「どんな仕事なのか、自分にもなれるのか」-。手紙を書いて会いに行くと、鍼灸師やあんまマッサージ指圧師の資格取得を勧められ、すぐに専門学校に通った。

 実業団女子バスケットボール部のトレーナーを経て、連盟の専属トレーナーになったのは2000年。浅田をはじめ、高橋大輔(関大大学院)や羽生結弦(ANA)ら現在のトップ選手は、ジュニア以前の小学生の頃から成長を見てきた。

 「大輔は強くステップを踏めるだけあって、ふくろはぎの筋肉がすごい。結弦は柔軟性に優れていて、若いのに自分の体のこともよく知っている」。選手たちの体の特徴も熟知している。

 21日からソチ五輪最終選考会を兼ねた全日本選手権が開幕する。「みんな選ばれて欲しいけど…。せめて満足な演技ができるようにサポートしたい」。熱戦が繰り広げられるリンクの片隅で、選手たちを見守る。=敬称略

 ■加藤修(かとう・おさむ) 1948年9月27日、東京都生まれ。専修大入学後に本格的にフィギュアスケート選手として活動し、全日本ジュニア選手権などに出場。81年~99年まで実業団の女子バスケットボール部でトレーナーを務め、2000年から日本スケート連盟の専任トレーナー。


加藤さんは浅田ら選手個々の特徴を把握しながら、万全の体調管理に努めている=7日、福岡市(大里直也撮影)


浅田選手のこれまでの苦労は、ファンの全員が知っている事だと思います。

本当に、苦労し、理不尽な採点にあっても只黙って滑り続けました。

ジャンプの改造の所為で、ジャンプが跳べなくなってしまっても、試合に出続け、また練習もずっと欠かさず、やっと今季まで持ってくる事ができましたよね。

しかし、その無理がたたったのでしょう。

去季には腰痛と、今季のファイナル前も腰痛が再発したようです。

トレーナーの加藤さんの御掛けで、事なくを得たようですが、浅田選手の身体は、難しい事をするには(3Aを3回等)、本当に限界に近いのかもしれません。

だから今季で引退を決意してしまったのでしょう。

ジャンプの大改造で苦労した事がなかったら、もう少し身体が持ったのではないのかと悔しさが募りますね。

変な採点の所為で、しなくて良い苦労も沢山したと思います。

ファイナルで、こんなに頑張ってきた選手をあざけるような採点をしたAは絶対に許せません。

そしてずっと休んでのうのうとしていた選手に、浅田選手と同じ得点、それ以上を平然と与えるISUもです。

ソチ五輪で、変な採点をしたら、それこそ、日本でのフィギュア人気はなくなるでしょう。

そして二度と、フィギュアスケートの興行で日本で儲けられる事もなくなってしまうと思われます。

それはファンの逆襲です。

最後のシーズンとなるからこそ、佐藤コーチも、真央ちゃんに3A複数挑戦を後押ししてくれています。

ソチ五輪で、真央ちゃんの望む演技ができる事、またノーミスで滑られる事を祈っております。

腰痛が再発しない事も願っております。(。-人-。)




↓神様、真央ちゃんをお守りください……。m(_ _ )m


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