伊藤みどりと山田満知子2 | フィギュアスケート研究本

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日本のメダリストのコーチたち~山田満知子〈3〉

 右足首骨折で1985年世界選手権出場を棒に振った伊藤みどり。だが、指導する山田コーチばかりでなく日本スケート連盟、さらには周囲のバックアップは増していった。

 城田「東京世界選手権(伊藤みどり15歳、出場すれば2度目の世界選手権)。まず、みどりちゃんから、『足が痛くて練習できないんです』って連絡がきて…」

 山田氏「最初は痛み止めの注射を打って、試合には出ることになったのね。でも注射でどうにかなるものなのか確信が持てなかったから、お医者さんに『公式練習の時に試しに注射を打ってみてください。どれだけ効くのか、見てみたいから』って言ったんです。それでみどりは、注射で右足をマヒさせた状態で公式練習に出た。痛み止めが効いてるから、痛くない。痛くないからトリプルフリップを跳んでみた。その途端に…バーンっていっちゃったの」

 城田「あの時は大変だったわね。世界選手権、みどりのために東京に持ってきたようなものだったから」

 山田氏「だから連盟の人たちも、『なんとか一晩で直せないか』っていう。最初の診断では、骨折と言われなかったからね。足を氷で冷やしたりもして頑張ったのよ。それでも立てないみどりをもう一度病院に連れて行ったら、痛くてもう、足を着くこともできない。これでコンパルソリーが描けるわけがない」

 城田「私も目の前で見てたけれど、あの状態はかなりひどかった」

 山田氏「結局、疲労骨折だったのよ。だから『これはちょっと無理です。だって立てないんですよ!』って連盟の人に言ったら、『何を弱気なこと言ってるんだ!』って言われてね……。私も分かりますよ。みどりを出そうって頑張って、日本開催にした世界選手権。ここでいい成績を出して、オリンピックにつなげて…って、筋書きが全部できてたのに」

 城田「あの時は、記者の人たちの取材もすごかった。何が起きてるのかって、みどりちゃんと山田先生をみんなで追いかけるから、別の車を出して取材の車を巻いたりしてね。あれはみどりちゃんもかわいそうだったな…。そして連盟もみんなで相談して、『もう、みどりはあきらめよう』と、神宮で松葉杖ついたみどりちゃんを記者会見に出して。あの時のみんなの悲痛さというのは、やっぱり半端なかった」

 山田氏「うん、大変だったと思うよ。皆さん本当に一生懸命やってくださったけれど、どうしようもなかった。私たちも世界選手権の会場で骨折してしまったこと、すごくショックだったね。これはもう、連盟に対しても顔向けできない。これだけお膳立てしてもらって、みんながみどりのために動いてるのに棄権なんて…ね。でももう出られないわけだから、せめて勉強のために、(カタリナ)ビットを見にみどりを観覧席に行かせたんです。そうしたら、また怒られたのよ」

 城田「『こんな目立つところで、何やってんだ』って(笑)」

 山田氏「そう(笑)。もう私たち、どうしたらいいの? って、なってしまいました。あの当時は私も若くて、自分でも『頑張らなきゃ』って気持ちがすごく大きかった。それで選手たちを、頑張らせすぎたのかもしれないな。最近では年を取ってきたから、『無理せずに休んだら?』ってだんだん言うようになったのよ。以前は私がどんどん練習させるから『あそこが痛い、ここが痛い』って選手たち嘘ばっかりついて練習休もうとしてた(笑)。それが今は、佳菜子なんかが『疲れた』って言えば、『じゃあ今日は上がろうか』って感じなんです。疲れて嫌々練習しても、いい成果は出ない。だったら休ませちゃおう、とね。だから逆に、今の選手の方が弱音を吐かなくなったのよ。『痛い』なんて言おうものなら、『無理しないで、1週間くらい休もう』って私に言われちゃうから(笑)」

 城田「それがみどりちゃんの時代は、頑張らせすぎちゃってた」

 山田氏「そうかもしれない。私も、本当に何も分からなかったのね。トップの選手なんて、育てたことなかったから…。もう必死になってやるしかないんだもん。でもあの頃の私たちには、夢があった」

 城田「そう、夢があった。みどりちゃんと山田先生を中心に、オリンピックで金メダルを取れるかもしれない、ってね。アルベールビル(五輪)の時なんて、堤さん(義明氏=元西武鉄道オーナー)がずいぶん協力してくださって、『僕がやろう』って日本選手団の団長にもなって。あの堤さんが、選手席に一緒に座って、太鼓叩きながらみどりちゃんの応援をしてくれたのよ。『僕はチームと一緒にいるよ』って」

 山田氏「そう、私たち、堤さんにもすごくかわいがってもらった。それは本当に、ラッキーだったね」

 城田「堤さんだけでなく、連盟の久永さん(勝一郎氏=元連盟会長)、土ヶ端(武志)さん、大橋(和夫)さん…。オリンピック当時なんて、スケート連盟の事務局に2人しか残ってなかったのよ。みんなでアルベールビルに来て、選手たちのお手伝い!」

 山田氏「連盟の人と、インストラクターと、選手たちの家族と。選手村のご飯が口に合わないと困るからって、炊飯器を持ってきて、『ご飯できてるよ』『味噌汁できてるよ』って私たちにいつも声掛けてくれてた」

 城田「選手が練習から帰ってきたら、すぐ好きなものを食べられるようにしよう、ってね。私も炊飯器持って行って、おにぎり握ったわよ(笑)。魚焼き機を持っていったり、あんみつ、おしるこ。日本の選手が喜びそうな、ありとあらゆるものを用意したりしてね」

 山田氏「お握りだけじゃないでしょ。この人は、自分が良かれと思ったらあと先関係なくむちゃくちゃややったからね(笑)」

 城田「まあでも、色々な方に協力していただきながら(笑)。連盟だけでなく、スポンサーさんをはじめ、色々な会社の方にも連絡をとって」

 山田氏「選手のママたちも自分の子どもだけじゃなく、チームみんなの面倒を見てくれてね。今とは時代が違ったのかもしれないけれど」

 城田「そんな風に一つの夢に向かって身を捨てるくらいの人たちがいないと、うまくいかないのよ」

 山田氏「そうね。当時は経済的に恵まれた方も多かったから。連盟の大橋さんなんて、半年お仕事で稼いで、半年をスケートにつぎ込んでくれてた。太っ腹というかめちゃくちゃというか(笑)、最近はそういう人は少ないわね。まともな人が多い」

 城田「大橋さん、人の面倒を見るのも好きだったけれど、それ以上に…」

 山田氏「スケート命、だったね」

 城田「そう、スケート命。そんな純粋な少年みたいな気持ちを持ってる人、今はあまりいないねえ」

 山田氏「大橋さんの他には、やっぱり久永さん。『名古屋の山猿みたいなやつら』って言われてた私たちを認めてくださった。よく、『何が悪いんだ? 日本人は足が太いんだ、短いんだ。これで勝負すりゃあいいじゃないか!『って、言ってた。『スケートはスタイルが大事』ってみんなが言ってた時に、そんなことを力強く肯定してくれる人がいて、私たちは救われたのね。そうこうしてるうちに、日本人体型のみどりが世界をひっかきまわして、凄い! ってことになって、みんなが久永さんの言うことに納得して」

 城田「そう。実は今のスケート界の基礎、要を作ってきた。日本のスケートをこれだけのものにしてくれたのは、彼と土ヶ端さんの力は大きいのよね」

 山田氏「その久永さんもね、『やっぱりいい選手が出なきゃ、僕たち連盟もどうしようもないんだよ』って言ってくれたの。あの頃は割り当てで出場できるGPシリーズじゃなくて、各国の試合は招待制だった。いい選手であれば、試合に出てください、って外国から呼んでもらえる。だから、『みどりとまっちゃんのおかげで、僕たちはずいぶんいい勉強になりました』っておっしゃってたな。それで私たちも、『やっぱり選手は頑張らなきゃ』って思ったの。連盟の人たち、周りの方たちが一生懸命頑張ってくださっても、選手が頑張らなかったら何の足しにもならないから」

 城田「とにかくあの頃は誰に怒られても、大変な目に遭っても、腹が立っても、全部自分の勉強だ…。みんながそう思ってやってたんじゃないかな。そしてみんなの中心にいるみどりちゃんが、日本だけでなく世界中で愛される子だったのよ」

 山田氏「そうね。よくパーティでも、ISU(国際スケート連盟)のみなさんにほめられてね」

 城田「パーティがけっこう遅くまで続くから、途中でみどりちゃんが居眠り始めちゃって」

 山田氏「『みどりは小っちゃいから、先に帰らせます』ってみなさんにごあいさつさせて。そうしたらお行儀良く、ちゃんとしてるわねって、ISUの皆さんがすごくかわいがってくれたのよね。やっぱり日本って国で育った子だから、お行儀はいい。それでかわいがってもらえるのは、どこに国も一緒なんですよ」

 城田「当時の会長のポールセンさんをはじめ、みんながかわいがってくれた。あるパーティで、みどりちゃんにバラの花を一輪持たせて、ポールセンさんに渡させたの。そうしたら、すごい感激しちゃって!」

 山田氏「ポールセンさん、アルベールビル五輪の時なんて、『みどりに金メダルをかけられると思って女子の表彰式を待ってたのに、ものすごく悔しい』って言ってくださったのよ」

 城田「だからロビー活動ではないけれど、強いだけでなく、みんなから愛される選手を育てることは大事なんだな、と。日本はまだ世界で勝つなんてことは考えられない国だったから、なおさらね。それでみどりちゃんに、ちょっといいお洋服を着せたりもしてね」

 山田氏「なぜか私と城田さんまで、おそろいの服を作ったりね(笑)」

 城田「ちょっとでも感じのいい日本チームになろうとしたのよ(笑)。それからは選手たちの合宿でも、まずあいさつから徹底させたの。誰に会ってもきちんと出来るように、って。でもそんな風に気を使うことも多かったから…。山田先生は試合が終わると疲れちゃって、いつもガックリ力が抜けてた。それでうちの旦那が、成田まで先生を迎えに行ったことがあったわね」

 山田氏「あったね(笑)。試合会場で『日本に帰れるかしら?』ってくらい具合が悪くなって。城田さんの御主人がお医者様だから、成田で待機してくださってた」

 城田「ところが成田まで行ったのに、山田先生、ピンピンしてたって!」

 山田氏「飛行機の中で元気になっちゃったのよ(笑)。でも、本当に大きな決戦の試合の時ほど、色々疲れてた…」

 城田「本当に疲れてた…。今はもう肝が据わって大丈夫なこともあるけれど、あの頃は私もまだ若かったから、試合のたびにすごいドキドキ。チームを任されたからには勝たなきゃいけない、なんて背負うものがあって…。山田先生も今でこそドン! ドシっていられるけれど、あの頃は『何とかしなきゃ』って気持ちが強くて。試合が終わるたびに、ガクンとなってたわね」

(2012年7月12日18時02分 スポーツ報知)

日本のメダリストのコーチたち~山田満知子〈4〉

 山田氏「まあ、そんな風に私たちのやり方や、私がみどりを育てることに対して反対の人がいっぱいいたと思うんですよ。でも無事にみどりが引退して、次に小岩井(久美子)がいろいろな大会に出させてもらえる選手になって、そして恩田(美栄)、中野(友加里)、舞、真央(浅田姉妹)が続いて…。今は佳菜ちゃん(村上佳菜子)と、私も選手に恵まれてるよね」

 城田「選手たちを育てたことに加えて、山田先生の功績で面白いのは、振付師のデビット・ウィルソンを、早くから日本に呼んでたでしょう? みどりちゃんから始まって、真央ちゃんくらいまで」

 山田氏「デビットね。みどりが引退して、ショーに出てたころかな? アメリカやカナダの男の子たちを見てると、すごく目に入ってくるプログラムがあってね、『誰が振り付けてるのかなあ?』って思った。聞いたら、デビット・ウィルソンって人だよ、って。それで樋口先生(樋口美穂子コーチ)にコンタクトを取ってもらったの。最初はみどりのショーの振り付けを頼みたいと思ったのね」

 城田「デビットといえば、ヨナ(金妍兒)に(ジェフリー)バトル、高橋大輔君と、ビッグネームの振り付けで知られてるけど…」

 山田氏「当時はまだそれほど有名じゃなかったから、『名古屋に来てくれる? 』って頼んだのよ。しかも『安くお願いね』って(笑)」

 城田「安くね(笑)」

 山田氏「うちはそんなに払えないからね。その変わり出来るだけ稼げるように、みどりから初心者の子どもたちまで全員見てもらったの。長い時は1カ月、名古屋にいてもらったかな」

 城田「ちびっ子までデイビット! 今じゃ考えられない…」

 山田氏「働く気があるのなら、お願いしたい仕事はいっぱいあるのよ、と」

 城田「でもデビット、芸術家タイプだから気まぐれで、大変なこともあったでしょう?」

 山田氏「うん、だから私、すごく怒ったこともあるよ。『そんなにたるんでばかりじゃ、お金払えないよ!』『お金稼いでカナダに帰りたかったら、頑張りなさい』なんて。今考えるとすごいことだけれど、彼は大須のリンクの一般営業の時間に子どもたちを教えてくれてたんですよ」

 城田「あの、お客さんでいっぱいのリンクで? 今はトロントの名門クラブで貸し切って振り付けしてるのに!」

 山田氏「ある時、小学生の団体が遊びに来たの。リンクを仕切って、あっち側では子どもたちがギャアギャア騒いでる」

 城田「そのすぐ近くでプログラムの振り付け…」

 山田氏「そう、デビットもさすがにギャーっとなって、リンクの真ん中でキレて出てっちゃった!」

 城田「さすがにかわいそうねえ」

 山田氏「美穂子先生とね、『どうする? 怒って出ちゃったよ』『仕方ない。捜しに行くか…」って(笑)。彼には日本のリンク事情を話して、『ごめんね、日本はこうなの。イライラするかもしれないけど、頑張ってね』って言った」

 城田「今や彼に振り付けてもらいたくて、世界中の選手がカナダに行く、そんな振付師よ」

 山田氏「ねえ(笑)。そんな風にデビットの振り付けたプログラムを、例えばジュニアの選手たちが国際大会で滑るでしょ? そうすると、『これ、誰の振り付け?』ってよく聞かれたな。時にはカナダの人にも聞かれるから、『デビット・ウイルソン。カナダの人よ!』って言っても『ええっ! 誰?』って驚かれたりもして(笑)」

 城田「私が覚えてるのは、みどりちゃんがアイスショー(97年プリンスアイスワールドなど)で日本の曲で滑ったプログラム。『ずいずいずっころばし』だっけ?」

 山田氏「そう、『ずいずいずっころばし』。あれはデビットよ」

 城田「あれは、かわいいプログラムだった。そのことでデビットと話したこと、覚えてるわよ。『このへんでもうひとつ、ステップ入れたらどう?』『いいねえ』って。でもみどりちゃん、ステップ増やしたらジャンプ跳べなくなるからイヤです、って(笑)」

 山田氏「そのうちデビットも、カナダでトップの選手たちの振り付けをするようになって」

 城田「(ジョアニー)ロシェットとか、(シンシア)ファヌフとかね。あれが05年頃でしょう? 実は山田先生の方が、先に彼の才能を買ってたのね」

 山田氏「そうそう(笑)。古くからの付き合いだからね。デビットが何かのインタビューで私のこと、『日本のママだ』って話してくれたのよ。真央ちゃんを連れて世界ジュニアに行った時も、彼がわざわざ会いに来てくれたの。『デビットっていう人が、先生を待ってますよ』って言われて、どこのデビット? って思ったら、彼だった。もう結構有名になってたのに、ずっと私のこと待っててくれてね」

 城田「05年の世界ジュニア(カナダ・キッチナー)ね」

 山田氏「そう。『いやあ、久しぶり』『デビット、ちょっと太ったんじゃない?』なんて話したの(笑)。デビットはまた、美穂子のことをすごく可愛がってたし、認めてたみたい。『カナダに連れて帰りたい』『自分と一緒に仕事をさせたい』って、よく言ってたな」

 城田「今でも選手たちが海外に振り付けに行く時は、だいたい美穂子先生が付き添ってるわよね」

 山田氏「うん、デビットの後に真央ちゃんたちは、リー・アン・ミラーやローリー・ニコルのところに行ったんだけれど、だいたい美穂子に行ってもらってた。美穂子も振り付けのアイディアをすごく豊富に持ってる人だから、デビットだけじゃなくみんなにかわいがってもらったのよ。他の振付師がついてくるのはダメだけど、美穂子だったらいいよ、なんて言われてね。去年も真央ちゃんの振り付けで名古屋に来てたローリーが、『ミホコ、元気?』って訊いてくれたの」

 城田「美穂子先生も、世界中で勉強してきたんでしょうね」

 山田氏「色々な人と組んで来て、美穂子もたくさんのノウハウを得られて。また今度は違う人とやりたいってことで、去年は佳菜ちゃんと一緒にタラソワの所に行ったり、マリーナの所に行ったりもした。ありがたいなって思いますよ。私たちチームみんな、あちこちで良くしてもらって。デイビッドにも、私たちがまだこんなに頑張ってるところを見せたいよね、って美穂子と話すのよ」

 城田「デビット、本当に毎年のように名古屋に来てたものね。もう世界的な振付師なのに」

 山田氏「その世界的な振付師に、文句言って作り直させたの、誰だっけ?」

 城田「アハハハハ」

 山田氏「『これダメ、やり直し』って(笑)。あれは美栄の時だったかしらねぇ。当時は美栄ちゃんが日本のトップの一人だったから、城田さんがわざわざ名古屋に来たのよ。『え、デビットって人を呼んでるの? じゃあ見に行くわ』って。そしたらいきなり、『このプログラム、左回りばっかり! もうスタートから変えなさい』って(笑)。しょうがないからデビットに、『左回りばかりでダメだって。スタートから変えろって言ってるよ、連盟が』って伝えた。あれには彼もびびったと思うよ。『はあ?』って(笑)」

 城田「いやあ、あの頃は私も純粋というか(笑)。デビットもまだ若くて、ぶつかり合ってね。『これダメ』『もう、曲から変えちゃいなさい』とか(笑)。でも私とデビット、今でも仲良しなのよ。去年も中国でたまたま会ったの。私が参加したセミナーに彼も来ていて、『日本は最近声を掛けてくれないけれど、中国は僕を呼んでくれるから来てるんだよ』だって(笑)。まあ強化部長だった頃には、選手を強くさせようって気持ちできついことも言ったし、怒ったりもしてきた。でもやっぱり、常に本音で付き合っていきたい気持ちがあったのよ」

 山田氏「城田さんがわがまま娘だってことは、よく分かってますから(笑)。でもやっぱり、そんな人も一人、連盟にいなきゃいけない。聞きわけのいい人ばっかりじゃ駄目なの」

 城田「私もかなり無茶やったけれど、山田先生だってけっこう無茶苦茶だったんだから。私たち、ぶつかりあったりもしたけれど、でもいつもどこかで…」

 山田氏「そう、城田さんと私って、どっかで仲がいいんですよ。連盟とインストラクターって、絶対に相いれないものがある。本来、そうあるべきだ、とも思う。だけど城田さんと私って、どこかでお互いに認め合える部分があるのよね。たぶん連盟とインストラクターという枠を越えた、人間的な共通点があるのかな? お互いに人間的に、惹かれあってるのかな? ちょっと、褒めときましたけど(笑)」

 城田「そうよね(笑)。だからぶつかり合いそうでいて、そうでもないよね?」

 山田氏「いや、ぶつかり合ってはいるけれど(笑)。でもお互い正直だからね」

 城田「お互いにわがままだしね(笑)。よく遠征先でも、みんなの目を盗んで買い物に行ったりしてた。『試合終わっちゃったし、行っちゃおうか?』って(笑)」

 山田氏「パリなんて、よく2人で歩き回ったわねえ。(佐藤)信夫先生にも私たちの荷物を持ってもらったりしたよね。信夫先生からは『のこちゃんと山田先生がそろうと最悪』って、今でも言うもの(笑)。『この2人と一緒に試合に行ったら、ろくなことがない』って(笑)」

 城田「私たち3人で試合に行くこと、多かったからね。私も言われたよ。『のこの旦那さんは大変だよねえ』って(笑)。だから同じわがまま娘でも、久美(佐藤信夫氏の妻)ちゃんは、私たちに比べればまだマシだ、なんて思ったんじゃない?」

(2012年7月23日17時50分 スポーツ報知)

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デビッドウィルソン(中央)と山田満知子コーチ(左から2番目)とご主人(左端)

↓前篇は、こちらです。

http://ameblo.jp/shuppansports/entry-11287043747.html
伊藤みどりと山田満知子

伊藤みどりさんの時代は、有力選手が少なくて、彼女一人に、過大な期待がかかっていて大変だったようです。

しかし、その代わりに、応援してくれた方々も沢山いたようです。

前会長の久永さんの敏腕さは、目を見張ります。

若い時のデビット・ウィルソンさんが、日本から早く、その腕を見込まれて、振り付けの仕事を沢山していたのですね。

山田コーチの先見の明は、凄かったのですね。



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