libertyとfreedom、この違いを問い続けた旅やった。
前置きが長くなるけど。。。旅前のぼくのことを少し。
ぼくは旅に出る前、用事のない限り、週6でアルバイト先のマクドナルドの厨房に立っていました。
その稼いだお金で、ぼくはアフリカに行ったり、団体の活動で毎月東京や群馬へ行ったり。
「海外に行こう、じゃあ大体これくらいの予算いる、じゃあ月これだけは貯めよう。」そんな自転車操業みたいな感じで。毎月10万円以上稼いで、次の日の給料日前には5000円切ってるような。今思うと、貯金しなかったのは馬鹿だったと思う。
こんなに長い間、旅をしてきてなんですが、猫も驚くほどにインドア派なぼくは外出でお金を使うことも殆ど無かった。旅したいと思ったことは今まで一度もない。正直、この旅も「旅したい」と思って出た訳じゃない。後から「旅って良いもんなんやなあ、ぼくもして良かったー!!」って思うようになったけども。お洒落にも無頓着だし、大学が田舎にあることもあって、飲みに行くことも少なかった。
ぼくは、ずっとFREEDOMの状態だったんだと思ってる。「束縛のない」自由を享受してた。そして、それで良いと思ってた。
束縛は、なかった。
旅の中で、トルコでリビア人の友人にイギリス留学ぶりに再会し、パレスチナへ行ってデモの前線に立ち、ソマリランドで変えることが難しい環境を見た。
彼らに、自由というものはなかった。その手に「あるはずの自由」を勝ち取るために、彼らは人生を、命を懸けて、闘っていた。
世界の違うところでは、こんな生き方を強いられている人がいることを文字や映像では見てた。そう、ただ「見てた」だけ。
その魂の叫びをぼくはこの耳で聞いた。
その銃痕の傷の痛みをこの指で感じた。
催涙弾を少し吸った。少量で良かった。
それでも、ぼくはことの当事者ではなかった。
なりたくない、とも思った。
ただ、ぼくを突き動かす衝動があった。
その時に分かったことが一つあって。
こういう状況が生まれた時に、まず初めに犠牲になるものが二つあるんだと。
それは「真実」と「子どもたち」
真実は、あんましその通りには伝わってきてないんだなあって。マスメディアの情報だけだと、やっぱり限界はある。日本のだけだと尚更。そして、そこで起こっていることがそのまま伝わるということも、少ない。捏造、歪曲されていることだって、往々にしてあるものだと知った。
ぼくは大学の国際協力の団体で「伝える、知ってもらう」という活動をしてたけど、今思う。
一体、ぼくは世界の何を知って、何を伝えようとしていたんだろうと。
子どもたちは、万国共通、この世界の宝。どこにいても、その愛おしさは変わらない。そして、彼らに罪はない。だけれども、大人たちの勝手な都合で、たくさん殺されていく。
戦う術もないし、戦う必要もない。
彼らが簡単に殺され、犠牲になっていく。
パレスチナのデモの時に、目の前で15歳の子どもが逮捕された。
ぼくは何もできなかった。ただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
力なき愛は無力、その言葉の意味を初めて実感した。
彼らは自由を、LIVERTYを追い求めている。
運命という「束縛からの自由」を。
自由。それは、こんな生意気な大学生活を送ってきたぼくが考えるには、とてもじゃないけど無理があるテーゼ。
ぼくが生きる意味を、根本から問いただしてる。
駿祐