2016/05/19 journal | 陣内俊 Prayer Letter -ONLINE-

2016/05/19 journal

 

 

■タイトル:

 

神のレシピ

 

 

■聖書箇所:

 

出エジプト記40章25節 

 

そうして彼は主の前にともしび皿を上げた。主がモーセに命じられたとおりである。

 

 

 

40章の構成は3つの部分に分かれる。

 

 

前半は、規定に従って

ベツァルエルらが指揮して作った道具を、

「このように配置しなさい」

と主がモーセに指示を与える。

 

 

中盤は、その指示に基づいて

モーセがそれぞれを配置していく。

 

 

一つ作業を行うたびに、

「主がモーセに命じられたとおりである。」

という一文が差し挟まれ、

合計7回「主がモーセに命じられたとおりである。」が、

作業と次の作業の間にミルフィーユのように挟まれている。

 

 

後半は、

モーセが作業を終えるやいなや、

幕屋に主の栄光が満ち、

その栄光は昼は雲の柱、

夜は火の柱としてイスラエルの民を導いた、

という解説である。

 

 

主からの指示→実行→主の御業

 

 

という筋立てになっている。

 

 

面白い発見がふたつ。

 

 

1.主からの指示とその実行と、その結果である「主の御業」の間には、因果関係が成り立っていない。

 

 

モーセがしたことは、すべて「普通のこと」である。

 

 

注意深く、それぞれの道具を配置し、

油を注ぎ、火をともして行った。

 

 

その結果、「普通でないこと」が起きた。

 

 

入力と出力、原因と結果が釣り合っていない。

入力は「自然」であり、出力は「超自然」である。

 

 

イエスがカナの婚礼で水をぶどう酒に

変えた奇跡も全く同じである。

 

 

イエスが人にせよと言われたことは普通のことであり、

それによって起きた出来事は普通でないことだった。

 

 

私たちの信仰の歩みはこれに比べることが出来る。

 

 

私たちは普通のことをする。

 

 

祈り、聖書を読み、神に示されたことを行う。

それによって起こることは、超自然的なことである。

 

 

自分の中にキリストが造られ、人が変えられ、

神の御国がこの地上にもたらされる。

あるときは奇跡を伴う。

 

 

 

2.支持とその実行の間には、くどいほどに注意深く「指示通りに」という言葉が差し挟まれる。

 

 

モーセの一挙手一投足のすべての合間に、

「主が命じられたとおりに」モーセが行った、

という言葉がある。

 

 

これを読んでいると、

初めて造る料理のレシピを見ながら、

分量や行程を間違わないように、

ひとつの作業、一つの行程ごとに、

レシピを見直すときの自分と似ていると思った。

 

 

私たちのレシピは聖書である。

 

 

一つの行程は1日だったり半日だったり、

あるときは一時間かもしれない。

 

 

毎朝デボーションをするのはもちろんのこと、

一日の間の合間合間に、トイレの中ででも、

何かの待ち時間ででも、

デボーションジャーナルをタブレットなどで復習する行為は、

おそらくこのときのモーセの態度に似ている。

 

 

主よ、あなたの指示を聞き、それを私が行いますように。

その結果は、私の予想を超えた主の業であることを信じ、

そのように期待いたします。感謝します。