2016/01/17 journal part2
第一コリント12章26節
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
私たちはキリストの身体の各器官だというパウロの話。
私たちは有機的につながっているので、
ひとつの部分が苦しめばすべての部分がともに苦しみ、
ひとつの部分が尊ばれれば、
すべての部分がともに喜ぶはずだ、
とパウロは言う。
私の「身体」のメンバーにも苦しんでいる者がいる。
教会の中にも、神に従うことから逃げている人や、文句や噂話ばかりしている人はいつでもいる。
情けなくなるし、さばきたくなる、文句を言いたくなるし、切り捨ててしまいたくなる、私は高慢なので、生理的に、反射的にそういう反応をしてしまう。
しかし、この反射的な反応は聖書的ではない。
彼らは怠けているのでも、意図的に反抗しているのでも、悪意をもってそうしているのでもない。
彼らは傷んでいるのだ。
苦しんできるのだ。
だから「できない」あるいは「的を外す」のだ。
だとしたら聖書的な反応は、その痛み、その苦しみを、自分の身体の一部が感じているものとして、私も同じように感じることである。
私自信も、いろんな人々にそのようにしてもらうことによって、2年間を生き抜くことが出来た。私も同じようにすべきであろう。
信者が十分の一献金をしないことを牧師が裁くというのは本当におかしなことだと今朝、示された。学校の教師や親が子どもの学力に責任を負っているように、教会メンバーの霊的成熟の責任を神にあって負っているのは牧師である。
だとしたらそのメンバーの未熟は裁きや批判の対象ではなく、自分自身の未熟の表れであり、神の前に恥ずかしく思い、そして一緒にその痛みや苦しみや足りなさを背負うべきである。
主よ、彼らと私はひとつです。
どうか彼らを赦してください。
彼らの成長に資するように、
私も成長させてください、と。
主よ、どうか私を成長させてください。
そしてその成長が、私の属する教会にそれが資するように、
また、日本全体の教会に資するようになりますように。
アーメン。