大きな嘘、小さな嘘 | 陣内俊 Prayer Letter -ONLINE-

大きな嘘、小さな嘘


映画の話しをします。


「突然おかしなものをぶっこんできたぞ」


と思われるかもしれませんが、


安心してください。


本人が一番そう思ってます。





僕は結構映画が好きで、


ここ7年間ぐらいは、


平均すると年間10本ぐらい映画館で観てる気がする。


これを持ってすげー好きとしていいのか分からない、


中途半端なラインなんだけど、


自分の映画論のようなものがいくつかあって、


僕が映画に求めているのは「切なさ」だと分かってきた。


だから北野映画が結構好きだったりする。






今日したいのは切なさの話ではなく、


脚本の話し。





実は僕は自分でも脚本を書く。


高校の時は自分が書いた脚本の劇が、


学際でグランプリをとったし、


教会の子供会とか、


あと知人の結婚式の二次会の劇とか、


そういうのは年に1本ぐらい書いてきた。


まぁこれも微妙なラインなんだけど。


中途半端さには、片目をつぶっていただきたい。





で、作り手から観た時、


映画なり劇なりの脚本っていうのは、


簡単に言うと「嘘をつく」ことなんだと思っている。


小説や書きものも同じかもしれない。





ここで肝心なことがあって、


話しの紡ぎ手は、嘘をつきながら、


それを観たり聞いたりする人が、


「嘘じゃない」と思ってしまうほど、


リアリティを出す必要がある。


「これは本当の出来事なんじゃないか」


と錯覚させることが大事なのだ。


聴衆なり読者は、


そういう「夢」を見たがって来ているわけだから、


リアリティでもって一世一代のその嘘を信じさせる、


それが劇作家や映画監督や小説家や、


そういうストーリーテラーの「腕」の本質ではないか、


と僕は考えている。





このとき、二種類の嘘がある。


一つは小さな嘘、


一つは大きな嘘だ。






フィクションの作品は、


最初に大きな嘘をついている。


ノンフィクションの作品にはそれがない。






大原則として、


「大きな嘘」をついた話しの紡ぎ手は、


絶対に「小さな嘘」をついちゃいけない。


ここを厳密にやらなきゃ、


作品としてプアーと言わざるを得ない。





最初に大きな嘘がないノンフィクションは、


ある意味においては有利だ。


最初の大きな嘘が無い分、


「感動」させるための小さな嘘が大目に見られたりする。






もうすこし説明を加えると、


例えば「踊る大捜査線」でも「ナルニア国物語」でも、


なんでも良いけど、


そういう映画の場合、


最初に「大きな嘘」をついている分、


小さな嘘は赦されない。


小さな嘘、っていうのは、


「警察署の机がこんなキレイなはずないだろ」


とか、


「あの手錠は完全におもちゃだろ。


 もしくは新品だろ。」


とか、


「青島君の性格を考えたら、


 ここで彼がこんなセリフを言うはずないだろ」


とか、


「ナルニア国はこういうルールで動いているはずなのに、


 そのルールと法則を破るような出来事が、


 なぜあのときだけ起こったんだろう?」


と、見ている人に思わせたら絶対に駄目なのだ。





「嘘のつき手」は、仮想のリアリティの中に、


観客を巻き込んでこそ仕事が成功したと言えるのだから、


そこで夢から覚めるような「小さな嘘」というのは、


最もやってはいけないことだ。





松本人志のコントがすごいのは、


この「小さな嘘」が無い点というのもある。


そのコントの「世界観」を破るような小さな嘘をつかない。


キャシー塚本もゴレンジャイも世界一位の男もアホアホマンも、


最初の虚構という枠組みからはみ出る嘘をついていない。


ルールが一貫しているのだ。





この点、「JFK」とか、


「ガンジー」とか、「誰も知らない」とか、


そういう「実話に基づく」とされる映画は、


この「小さな嘘」に対する聴衆の評価がかなり甘くなる。


前提として「これは本当の話だ」というのがあるから、


脚色や「小さな嘘」が許容されるし、


観る方もある程度それを期待してるところもある。





めちゃくちゃ極端な話をすると、


「ガンジー」の映画に、


カメラマンが映り込んでいても、


「あぁ、ミスで映り込んだんだな。」


と思って、流せる。





(実際に映りこむことは絶対ないだろうけど)





これが「ナルニア国物語」だと、


絶対に、絶対に、ゆるされない。


夢が覚めてしまう。





ディズニーランドで、


ミッキーの着ぐるみスタッフが、


顔を脱いで、汗を拭き、


携帯片手にシフト表に記入しているのを、


目撃してしまったぐらいのショックがある。


「お疲れさまでした~。


 来週はそこ入れないんですよね~。」


これは赦されない。






これまた突然ですが、悪魔の話をします。






悪魔は実在の存在だと僕は思っている。


聖書に書いてあるから。


それから、イエス様は悪魔と対峙しているから。





悪魔は、数千年物間嘘を続けてきた、


「プロの嘘つき」だ。


そして、悪魔がついている嘘は、


「大きな嘘」だ。






悪魔が書いているそのシナリオとは、


オレオレ詐欺みたいな小さなものではない。


世界大の嘘だ。


それは、この世の中の「世界を観る眼鏡」だと僕は思う。


・目に見えるものがすべて。


・死んだあと何も残らない。


・個人が幸福を追求すると、全体が幸せになる。


・自分に正直に生きる(神に、ではなく。)


・絶対的な正義など存在しない。(ポストモダニズム)


・絶対的真理があるとの主張は不寛容である。


・神は死んだ。(ニーチェ)


・人類は発展し続けていて、


 その進化によってすべての問題を解決出来る。


・人間は猿から進化した、「偶然」の産物だ。


・神を信じるということは理性的な行為ではない。


・信仰は単に精神と心の問題であって、


 それで現実の社会や人生を変えようなどとしてはいけない。


・科学的に証明されないものは実在しないのと同じことだ。




などがそれだ。




、、、



、、、



悪魔は「プロの嘘つき」だ。





上に挙げたようなものは、


申し訳ないけど、


全部、だ。


大きな嘘だ。





大きな嘘だと、僕は確信しているし、


そう考える根拠を僕は持っている。


その根拠は、有名な権威ある書物だ。


その書物の著者は、


この世界の最終権威だ。


大きな嘘をついているストーリーテラーの、


はるか上にいらっしゃる権威だ。




、、、




大きな嘘を信じさせるためには、


小さな嘘をついてはいけない。





悪魔は「小さな嘘」をつかないことで、


嘘のシナリオを何十億人に信じさせることに成功している。


その証拠に、


上に挙げた「世界観」で世の中を観るとき、


筋が通っているようにみえる。


矛盾がないようにみえる。


至極理に適っているようにみえる。


論理的に整合性があるように見える。





それは、悪魔の嘘が巧妙だからだ。


悪魔は総論において嘘をつくが、


各論においてたった一つの嘘もないからだ。


それは厳密で、隙がない。





でも、これを「大きな嘘かもしれない」


と一度疑ってみる必要は、


すべての人類にあると僕は考える。


世界をみる眼鏡、大前提、歴史のシナリオのすべてを、


根底から疑ってみると、


今まで見えなかったものが見えてきたりする。





上に挙げた、世の中では「通説」であるとされるところの、


僕が「悪魔のシナリオ」と呼ぶものが、


真実ではなく「大きな嘘」であることを示唆する証拠がある。





それは、これを信じている人の多くが、


幸せであるように見えないことだ。


もっとハッキリ言うと、


不 幸 で あ る こ と だ 。





日本では、


12年連続で3万人以上の人が自殺している。


若者の85%が、生きる意味が分からないと言っている。


日本の児童は他国との比較で、


ダントツに自己評価が低く、


2位に3倍の差をつけて、


「孤独を感じる」と言っている。


「こんな世の中に新しい命を生み出して良いものだろうか」


と出産をためらう故に出生率が下がるような社会を、


我々は作り出してしまった。





政治的方策や、


経済の挽回などは、


各論やメソッドの話しに過ぎない。


この国は一度、


「大きなシナリオ」を疑ってみる必要があるのではないかと、


僕は思っている。





あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。 ヨハネの福音書8:44





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