……

……

……なんだか薄暗い、だけど異様に広い空間。寒い。冷たい。

 

小さな男の子が、その真ん中に裸足でぽつんと立っている。黒い布で目隠しをされ、両手首を金属の手錠で拘束されている。

 

壁のずっと上の方には、長細いガラス窓があった。その向こうから、白衣姿の人影たちがバインダーや記録端末を手に何人も見下ろしている。

 

突然、壁の一部がサイレンと共に開いた。男の子はびくりと肩を震わせる。

開いた壁の向こうからは低温の霧が床を這い、それを追うようにして、黒く巨大な影がぬっと現れる。……四つ足と、大きく裂けた歪な口を持つ、異形の怪物だった。頭部にある突起の一部に、識別番号と思しきアルファベットと数字の羅列が刻まれていた。

 

怪物は部屋の中にいる男の子に気付くと、涎を垂らしながら、じりじりとにじり寄っていく。

男の子はその恐ろしい気配を察知し、弱々しく後ずさりを始める。明らかに、怯える様子を見せていた。

でも目隠しをされているせいか、足がもつれて後ろ向きに転んでしまった。

 

その瞬間、怪物は倒れた男の子に飛びかかった。

 

大きく凶悪な口のひと齧りで、両腕もろとも胸と腹が大きく抉られた。

血飛沫が飛び散る。

怪物は頭を持ち上げ、血まみれの細長い腸を啜り、男の子の身体を食い荒らした。

一切抵抗せず、悲鳴ひとつも上げず、男の子は動かなくなった。

 

窓の向こうから見ている白衣たちの表情が曇る。その中の一人が、何か機械を操作した。

すると肉を貪っていた怪物が突然、激しく痙攣したあと硬直し、大きな音を立てて床に倒れた。

 

皮膚も肉も骨も内臓もぐちゃぐちゃになり、男の子の身体はほとんど原形をとどめていない。

だけど、目隠しが破れて外れ、呆然と見開かれた赤い瞳は、瞬きをしていた。ゆっくりと視線を下に向け、無残にぶちまけられた自分の身体を観察しているようだった。

 

それでもやがて、だんだんと温度が下がっていく。瞳の動きが鈍る。

数十分ほど経った頃、男の子の首元に取りつけられた小さな装置から、脈が完全に絶えたことを知らせる電子音が鳴った。

 

反対側の壁に表示されている“0”という数字が、“1”に変わる。

 

それを見て、研究者たちはあまり芳しくなさそうな反応をしながら記録をつけていた。

 

 

 

 

 

「……え? なんだ、今の?」

 

 まだ映像は終わってないけど、ロランが声を上げた。みんなも困惑している。

 

「でかい魔物みたいなのに食い殺された子どもが見えたが……。あれは昔のあんたか」

 

「考察と議論は記録を一通り見終わってからにしよう。まだ始まったばかりだ」

 

 3-Rの声で、止まっていた映像が再び動き出した。

 

 

 

 

 

次の日の、同じ時間帯。

 

昨日と全く同じように、全く同じ位置に、同じ男の子が立たされている。おかしいな、死んだはずじゃ……。

 

同じようにサイレンが鳴り、同じ怪物が出てくる。でも突起の番号が違う。別の個体だ。

 

男の子はその気配を感じ取ると、昨日の記憶が残っているのか、より強く怯える素振りを見せた。そして昨日と同じように後ずさる。

でもそれだけじゃなく、今度は怪物に背を向けて走り出し、逃げた。

 

でもこの冷たく広い部屋に、出入り口らしきものはない。

壁にぶつかると、男の子は困ったように壁を探った。

そうしている間に怪物は近付いてきて……やがて男の子に背後から飛びかかり、首を噛みちぎった。

 

頭が転がり落ちた後の身体が、どういうわけかバタバタともがいている……。怪物は前足でそれを押さえ付けると、大口を開けて柔らかい脇腹を頬張った。

 

離れた場所に落ちている首が、なぜか悲鳴を上げた。

 

怪物が身体を食べ進めていくと、やがて首は叫ばなくなった。

壁に表示された数字が、“1”から“2”に増える。

 

白衣たちは昨日と変わらない面持ちで、その様子を記録した。

 

 

 

 

また別の日。やっぱり同じように男の子が立たされている。サイレンが鳴る前から、彼は開く壁のほうを見ていた。

 

そして、同じように怪物が現れる。

壁の数字は“5”だ。つまり、5回目?

 

今回は、男の子は逃げなかった。それほど怯えてもいない。

涎を垂らして近付き、やがて飛びかかってくる怪物。

その攻撃に合わせて身を屈め、うまく避けると、彼は怪物が来たほうに向かって走り出した。つまり、開いている壁へ。視界はないはずだけど、空気の温度とか流れで分かるんだろう。

 

よし、そのまま行けば逃げられる……そう思ってたら、直前のところで壁が高速で閉じてしまった。

壁に衝突し、男の子は困惑する。どうにもならない。

やがてその背後に怪物が追い付き……あとは、これまでと同じ結果だった。

 

 

それからも、何度も何度も同じような実験? が続いた。

広い空間に一人の男の子。現れる怪物。逃げ場がなく、なすすべもない。食い殺される男の子。

白衣の研究者らしき人たちは、黙々と、淡々と、ひたすらその様子を記録し続けた。

 

 

……壁の数字は、“42”。

男の子は微動だにせず、部屋の中央で俯いて立っている。

やがていつものように壁が開き、進み出てくる怪物。男の子はそっちを確認しようとすらしなかった。

獲物が全く動こうとしないからか、怪物はいつものように飛びかかろうとはせず、様子を窺うように警戒しながらゆっくりと接近した。

 

そして……一定の距離まで近付いたその時。

怪物の頸椎を、男の子は拘束されたままの両手を振り上げて殴りつけた。

その小さな体に似合わずすさまじい威力だったらしく、巨大な怪物は悲鳴のような金切り声を上げて大きくよろめいた。緑色の体液が飛び散る。

更にもう一撃が加えられると、怪物は勢いよく床に倒れ込んだ。地鳴りのような振動が部屋全体を揺らした。その時、怪物の頭部の突起が引っかかって、男の子の目隠しが破れた。

男の子は怪物の頭部に歩み寄ると、ゆっくりと合わせた両拳を頭上に振りかぶる。

数秒して、それが怪物の頭に叩き付けられた。

 

潰れた頭から体液が滲み出て液だまりを作る。

顔も髪もその体液でびしょ濡れになった男の子は、ゆっくりと頭を上げると、ガラス窓のほうを見上げた。

そこにいる研究者たちは沸き立ち、笑顔で頷きながら、嬉しそうに記録を取っていた。

この頃から、男の子は瞬きをしなくなっていた。

 

 

 

……壁の数字は“99”。

 

奥から怪物が現れるや否や、男の子は力ずくで金属の手錠を引きちぎった。そして目隠しを外す。感情のない赤い瞳が露わになった。

 

威嚇の唸り声を上げる怪物に、男の子は自分から飛びかかり、あっという間にその息の根を止めた。

 

するとやがて、壁の奥から同じ怪物がもう一体出てきた。いや、二体、……三体……もっと。

血の匂いを嗅ぎつけ、怪物たちは興奮して男の子に襲い掛かる。応じるように彼も走り出した。

前足を引きちぎり、目玉を腕で貫き、後ろ脚を捻り潰し、胴体を裂く。数百キロはありそうな巨体を片手で振り回し、投げ飛ばす。

初めの頃の弱々しさなど微塵もない動きで、男の子は怪物たちを次々と屠っていった。

ただし反撃を浴びた回数もそれなりで、男の子の身体にもダメージは蓄積していった。

 

怪物は壁の向こうから無尽蔵にやってくる。20体は倒したというところで、身体の損傷がさすがにひどくなり、男の子の動きが鈍った。でも、以前のように怯えたり痛がったりする素振りは全くなかった。それどころか、頬には微かに笑みさえ浮かんでいた。

 

やがて、増え続ける怪物たちの物量に押し切られる。血だらけになった男の子は床に押し倒され、群がる複数の怪物たちに全身を貪り食われた。身体が細切れにされていく中で、痙攣する右腕は最後まで目の前の怪物のほうに伸ばされていた。

 

 

……

壁の数字は、“210”。

 

男の子の動きは、もはや人の形をしたもののそれではなくなっていた。

両手両足を使って目にもとまらぬ速さで駆け回り、空中を跳ぶ。もはや襲い掛かるどころか怯えて逃げようとする怪物たちを、追い回し、翻弄し、殺す。そして仕留めた獲物は、以前自分がされたのと同じように噛みつき、貪り、食い散らかした。獲物たちの中には、男の子が喉を鳴らして威嚇しただけで、悲鳴のような声を上げて壁の向こうへ逃げ帰っていくものもいた。

いつの間にか彼の振る舞いは、完全に頂点捕食者のそれへと変貌していた。

 

骨だけになった怪物の亡骸が床に積み上がり、部屋中が静まり返る中で男の子の咀嚼音が響くようになった頃、別の壁が開いた。その向こうからは幾人かの白衣が歩いてくる。

それを見て、四つん這いになって肉を噛んでいた男の子は動きを止め、変形させていた関節を元に戻しながら立ち上がった。そして満足そうに頭を撫でてくる白衣の男の人を見上げて、微笑んだのだった。

 

……それから、また別の日。

男の子は椅子に座らされ、右腕を何かの装置に固定されている。最初は退屈そうに足をブラブラさせていたけど、ある時から異変を感じたのかその表情が曇り始める。

装置は、どうやら挟んだものを引っ張って伸ばすよう力を加えているようだった。

上腕部が固定されたまま、肘から先を引っ張る力がどんどん強くなるので、男の子は不安そうに装置や自分の腕を見やっていた。やがて、その顔は不安よりも痛みによって歪んでいく。

時折、白衣の研究員が様子を確かめに近くまで来る。そのたびに何か訴えたそうな目で彼らを見上げるけど、何の効果もない。

いよいよ腕から骨の軋む音が鳴り始め、男の子の身体が震え始める。顔は青ざめて脂汗が浮いている。それから少しして、ごちっ、と嫌な音を出して関節が千切れた。

室内に悲痛な叫び声が響き渡った。

涙を零して嫌がる男の子をよそに、装置はさらに動き続ける。骨による繋ぎがなくなった腕は容赦なく引っ張られ続けて細り、もとの1.5倍ほどの長さにまでなっていた。

……やがて、ぶちぶちと皮膚が、肉が、筋が破れていき……大量の血を零しながら、ついに肘から先が千切れた。

激痛に泣きじゃくる男の子をよそに、白衣たちは数値に表示された数字を淡々と記録に取る。誰ひとりとして、止血などの処置をしようとはしない。そうする必要がないことを知っているからだろうか。

でも、白衣のうちの一人が装置の先端から男の子の腕だったものを取ってきて、なぜかスライムに似た生き物のぬいぐるみと一緒に手渡した。

男の子はそれを受け取ると、少し落ち着いた様子で表情を和らげた。そして残っているほうの腕でぬいぐるみを抱きしめつつ、どういうわけか、血まみれの自分の右腕を小さな口でもぐもぐと食み始めたのだった。

その後、続けざまに左腕、右脚、左脚も同様に奪われていった。最終的に胴体だけにされてしまったというのに、男の子は研究者たちに対して怯えたり怒ったりする素振りは全くなかった。むしろよく懐き、甘えている印象さえあった。褒めてもらえるからと、無理やり引きちぎられた自分の身体を食べ続けていた。

その夜、与えられたぬいぐるみと一緒に眠り、一晩が経つとその身体はすっかり元通りになっていた。そのあと同じ実験が行われたところ、手足が千切れるまでには昨日の倍以上の時間がかかるという結果になった。

また一晩待ち、五体満足でより強靭な身体に治ってから、同じ装置に繋がれる。より長い苦痛の時間に耐えた末、四肢が奪われる……。

その一連の手続きは、機械の力では彼の身体に傷すらつけられなくなるまで、繰り返し続けられた。

 

 

……そんな調子で、その男の子はいくつもの奇妙な実験を受けていた。

ある時は熱超強酸のプールに沈められ、どれくらいの時間、形を保っていられるかを測るもの。

ある時は極低温の冷凍庫に入れられ、細胞の活動が何度で止まるかを見るもの。

ある時は全身を数センチ単位で切り刻まれ、どこまで細切れにされれば生命活動が停止するかを検証するもの。

ある時は管で血管に何かの薬物を流し入れ続け、どれくらいの量まで意識を保っていられるかを観察するもの。

ある時は床に固定され、上から巨大な金属の塊を落とされて、どれくらいの重さまでなら完全に潰れずに済むかを試すもの……。

 

どれも、目を覆いたくなるほど残酷非道な実験だった。

実際、昔の3-Rと思われるその男の子は、どの実験でも初めは怖がったり怯えたりしていた。泣いたり、叫んだりすることもあった。

そして実験の最後、限界となる値を過ぎた後には、多くの場合惨たらしく命を奪われていた。

 

強酸の中、溺れながら溶けて形を失ったり。

麻酔も何も投与されずに少しずつ身体を削ぎ落とされていき、頭だけになっても“痛い痛い”と泣いたり。

何トンもの金属の塊を、何度も何度も上から落とされて、眼窩から飛び出た目玉で白衣たちを見上げて涙を零し、圧迫されて弾けた内臓がはみ出した口を必死に動かして助けを乞う。

 

……それでも……

 

それでも、なぜか、彼は幸せそうだった。

担当だと思われる白衣の人の後をついて回り、抱き上げられるとその顔に頬擦りをした。

異様なのは、そんな彼の様子だけではなかった。

白衣の研究員たちもまた、彼に対し同じような態度で接していた。

あんなにひどい仕打ちをし続けておいて、あんなに何度も何度も、数えきれないほど嬲り殺しにしておいて。

まるで愛しい我が子にするように、額にキスをしたり、抱いて歌を聞かせたり、手を繋いで笑いながら一緒に歩いたりする。
 

データが取れた後の男の子の死体(または残骸としか呼べないようなもの)は、職員たちが黒いビニール袋に無造作に詰めて、どこかへ運んでいく。

そして、内部から光を零す巨大な変換装置――そう、これは“ルビス”――に放り込まれる。

装置が稼働すると、その身体は元通りになって出てくる。蘇った男の子はやがて目を覚まし、何事もなかったかのように研究者たちのもとへ歩いていくのだった。

 

……アレルがこの本を読んで変な顔をしていた理由が分かった。

これほどの扱いをされていて、なぜ伸ばされてくる手を受け入れられるのだろう? 向けられる優しい言葉を信じられるのだろう? 笑顔を返せるのだろう……?

そして、なぜこの人間たちにはこんな所業ができるのだろう? この時点での彼らは、まだ恐怖や不安を失って邪悪の化身になる前のはず。

 

でもなんとなくわかったことが、ひとつ……。

これで、正気でいろってほうが無理な話だ。

生まれてすぐにこんなことをされ続けて、真っ当に痛みや死を恐れたり、破壊や殺戮を躊躇するような神経に育つはずがない……。

 

 

『じゃあ、次の問題よ。これはなあに?』

 

しゃがんだ白衣の女の人が、パネルを持ってにこやかに問いかける。

パネルには写真が表示されている。吊り下げられ、血が滴る生肉だ。

正面に座る男の子はしばらく黙ってそれを眺めた後、短く答えた。

 

『からだ』

 

『そう! それじゃ、これは?』

 

パネルがめくられる。かわいらしい白ウサギの写真だ。

男の子はさほど間を置かずに答える。

 

『にく』

 

『そうね、お肉だわ。……じゃあこっちは?』

 

次のパネルは、若草と小ぶりな花の写真。

ちょっとだけ悩んで、男の子は答える。

 

『さんそ』

 

『うん、その通りよ。……最後はちょっと難しいわ。はい、これはなあに?』

 

今度のパネルには、何の写真も絵もなかった。ただの空白。

これまでより少し長くパネルを見つめた後、男の子は答えた。

 

『おとうさん』

 

女の人はにっこりと笑って頷くと、両腕を広げる。

男の子はそれを見て、椅子から入りると、ゆっくり女の人のほうへ向かって歩いた。それから抱擁を受け止め……大きく口を開けて。

女の人の頭部を、一口で半分ほど齧った。ごりっ、という異音が響く。

『ぎげぇっ』と、声になっていない悲鳴が漏れ出て、女の人の身体は激しく痙攣したあと動かなくなった。

 

その途端、実験室の壁からいくつもの大型機銃が突出してきて、一人残った男の子に一斉射撃を始めた。金属の弾幕に全身を穴だらけにされ、彼は壁まで吹っ飛ぶ。

しばらくの間はぴくぴくと痙攣していたけど、やがて全身の穴から血や臓物を垂らしながら息絶えた。

実験室の外、マジックミラーの向こう側でそれを見ていた研究者たちは、ため息をつきながら今の結果を記録している。……ん? なんか、その中に……。

 

……実験室のドアが開き、煙を上げる室内に3人の白衣が踏み入る。

そして壁際で倒れ、蜂の巣のようになって事切れている男の子を見下ろす。

その3人の先頭にいるのは……どう見ても、白衣を着たイレブンさんだった。いや、瞳が紫色……ってことは、11-P?

 

彼は室内の様子と男の子の死骸を軽く眺めたあと、「処分しろ」と一言。そしてさっさと戻っていった。両脇の二人の白衣は頷き、部屋に残って後片付けを始めた。

ちょっと待って、混乱してきた……どういうこと?

ポカンとしてたら、視界が別の部屋に移動した。

 

そこでは、翡翠色の髪の男の子……おそらく4-Gが、天井から伸びる複雑な装置で空中にきつく固定されていた。下には何かを受け止める大きな容器。

彼はその状態で放置されていたらしい。でもその部屋には、ほとんど途切れることなく多くの人員が出入りしていた。何のためかというと……。

その身体に、生き物の遺伝子情報を注入するためだ。男性器を持つ人間の職員が直接……ということもあれば、女性やアンドロイドが何か液体の入ったシリンジを持ってくることもあった。

しばらく経つと、彼は苦しそうに上半身をよじる。ほどなくして喉が膨らみ、得体の知れない不定形の物体がびちゃりとその口から吐き出される。よく見ればそれは、多くの場合四本足の生物の赤ん坊だった。……なんか……この色と造形、やけに見覚えが。え? まさかこれって、3-Rの実験に使われてた……。

容器の中に次々と生み出される謎の生物は、別の人員たちによって淡々と回収されていくけど……。一体なんのためにこんなことを?

 

ゾッとしながらも、眼を逸らすことがなかなかできない。縛り付けられ、嫌も応もなく延々と強制的に受精と出産を強要させられ続ける様は、醜悪かつ悲惨としか言いようがなかった。

ユーリルさんは一応この出産を経験しているので、その苦痛や負担が手に取るようにわかるからか、真っ青な顔で汗だくになっていた。

 

別の広い部屋に、黒い髪の男の子が座り込んでいる。5-Vだろうか。腕には何か小動物のようなものを抱いて、撫でて可愛がっている……。……え? これってさっきの、4-Gの……。

突然、どこからかアンドロイドが近付いてくる。そして男の子が抱いていた生き物を乱暴に取り上げると、その頭部と脚部を持って別々の方向に力をかけ始めた。まさか……。

男の子はそれを見て泣き出しそうになり、「やめて」「返して」と喚きながらアンドロイドの脚を掴む。けれどその訴えもむなしく、両端を引っ張られていた生き物は胴体から引き千切れてしまった。真っ赤な血や骨や臓物がぼとぼとと床に零れ落ちる。

男の子は絶叫し、床に落ちた生き物の残骸をかき集めて抱き締め、大声で泣いた。

……そこへ、白衣を着た研究員が歩いてくる。号泣し続ける男の子の目の前にしゃがみ込むと、彼に何かを差し出した。同じ小さな生き物の、別の個体だった。

男の子はハッとして、泣き止むと、うっすらと笑みを浮かべて生き物を受け取る。そしてさっきまでしていたように優しく撫でて、大切そうに抱いていた。アンドロイドは、男の子が興味を失くした残骸を丁寧に回収し、透明な保存容器に入れてどこかへ持っていく。

……ひょっとして、これが目的……なのか。

 

また別の部屋には、重厚な椅子型の装置に座らされ手足を拘束された、6-Bらしき子どもの姿があった。全身を厚いゴムのような素材の袋で覆われているのに加え、不自然に首が後ろに傾けられ、顔を真上に向けられている。……よく見たら、いくつもの細い針金のようなもので、両瞼が閉じられないように固定されていた。そうして強制的に開かれた瞳のすぐ前には、ホログラムスクリーンで何かの映像がずっと流されている。すごく速いし細かい内容は分からないけど……なんだかすごく不気味で、不安な気持ちになる映像だ。

閉じることが許されない青い瞳からは、ずっと絶え間なく、きらきら光る水色の液体が零れ落ち続けていた。それは管を通して、細長い透明な容器に溜められていく。この大掛かりな装置は全部、この光る涙を6-Bから採取するために……。

その後に見えた別の映像から考えると、どうやらその涙は嗜好品として、経済的階級の低い人々に高値で売りつけられているようだった。「夢見の雫」と呼ばれ、数滴口にすると半日は幻覚を見続ける。非常に強い依存性があるようで、自分の内臓や子供を売りさばいてまで金を作り、雫を買おうとする中毒者たちが大勢いた。これが蔓延しているせいで、スラム街にはゾンビのようになった人々が徘徊する恐ろしい光景が広がっている……けれど莫大な利益を生むので、アルカディアは気にすることなく製薬会社に涙を売り続けていた。6-Bはそのためだけに1秒たりとも休むことなく、涙を絞り出され続けていた。

 

……そんな調子で、色んな光景が見えたけど……全部が全部、胸糞悪くなるようなものばかりだった。白衣の研究者たちは何食わぬ顔で、凄惨な過程と結果を生む異常な実験を繰り返す。時にはその様子を見てコーヒーを飲みながら談笑さえしていた。

 

一体、これは……。それにさっき見えた、白衣を着た11-Pはどういうこと??

 

 

「ああ、懐かしい」

「懐かしいな」

「あれは本当に、抽出されてすぐのことだった」

「ほとんど全く手が加わっていない、贅沢な層だ」

 

 1_A01たちはなんでもなさそうにしていた。それどころか、言葉通り懐かしそうに微笑んでいる。

 

「贅沢??? どういう意味だ……?」

 

 冷や汗を垂らしながらユーリルさんが訊ねる。まぁこの人たちの言うことが意味不明なのは今に始まったことじゃないけど、一段と意味不明な感想だしなぁ。

 

「発生する循環値を全く調整していないので、最大レベルの因果が動くということだ」

「宇宙の寿命も何も考慮せず好き勝手に過ごした場合、このようになる。官能的ではあるが、少々自堕落が過ぎるかも知れん。少しは節制せんとな」

 

 あー、うん、わかんないや。

 

「何言ってるのかよく分かんないけど、とりあえずツラかったわけじゃなさそうだな……。まったく、理解できねーよ俺たちには」

 

 盛大にため息をついて、エックスさんが座りこんだ。

 

「贅沢、ですかー……。じゃあ逆に、極限まで節制したらどうなるんです?」

 

 エイトさんが不思議そうに尋ねたので、3-Rは別の本を取り出して開いた。なんか、さっきの本と比べて薄い……? ページ数が半分くらいしかない。

 

「うむ。これなどはいい例だろうな」

 

 同じように、本が光を発して視界を覆った。

 

 

 

 

 

 

 

……雨の降る、夕方の街並み。でも見た感じ、その空は人工的なものだ。地平線までずっと続くビル群は、どういうわけか地面ごと途中から折り返されたように歪曲している。頭上のはるか遠くにも街並みがあって、雨は中間層から上と下の両方に向かって降っている。やっぱりここは地球じゃなくて、宇宙のどこかに作られた衛星コロニーか何からしい。

 

宙に浮いた小型の乗り物が、アルカディアの建物に近付いてきて、ゆっくりと停止する。

ドアが開き、中からまず金髪の青年が下りてきた。紺色のスーツを着て赤いネクタイを締めている。ドアの脇に立って、続いて降りてきた壮年の重役らしき男性の荷物を持つと、その後についていく。そして一緒に、高層階へ向かうエレベーターに乗り込んだ。一瞬見間違いかと思ったけど、男性の付き人のように振る舞うその青年は、1-Rだった。

 

低層階の病室では、ベッドに銀髪の男の子が寝ている。なんだか体調が悪いようで、顔を赤らめて苦しそうにしていた。小さい頃の2-B……だろうか? ベッドの脇ではきょうだいと思しき子供が二人、心配そうにその子を見つめている。

そこへ、白衣を着て名札を付けた医師らしき人が入室してくる。

子供たちと反対側のベッド脇に屈み、ペンのような器具で光を当てて男の子の容態を確かめながら、優しい声で問診を行う……それは明らかに、眼鏡をかけた3-Rだった。

そう時間はかからずに診察を終えると、彼は壁際のパネルに何かを入力して、細長いシリンジを取り出した。中には蠢く青い霧のようなものが入っているけど……。

それを注射装置に取りつけて、男の子の耳の下あたりに刺して投与する。すると不思議なことに、ほんの数分で、男の子の顔色はみるみるうちによくなっていった。

 

見違えるように元気になった男の子は、二人のきょうだいと一緒に嬉しそうに歩いて建物の外に出る。雨足が強まっていた。

ちょうど、向こうからは傘を差した両親と思しき二人が小走りで向かってきている。

両親は三人を迎えながら、その後から歩いてきた3-Rに、何度もペコペコと頭を下げてお礼を言っていた。たぶん、2-Bが学校とかで急に体調を崩して運ばれたんだろう。

両親に連れられて街へと戻っていく子供たちは、笑顔で後ろを振り返って腕を振っていた。

傘を差した3-Rは、彼らの姿が見えなくなるまで笑顔で手を振り返していた。

 

親子が道路の上にかかる橋を渡る。途中、コートを着た一人の男の人とすれ違った。後ろには部下のような人たちが何人かついている。

目の前を元気よく駆けていった3人の子どもたちを、彼は振り返る。無邪気な後ろ姿を見つめ、微かに笑みを浮かべるその人は、10-Oだった。

 

こんな調子で、その世界では1_A01たちがあたかも社会の一員であるかのように、人間たちに溶け込んで生活していた。5-Vが大学の教員をしていたり、8-Yが公安当局の部隊長だったり。それぞれ、名前と身分をしっかり用意して。

ときどき出会っても、お互いそ知らぬ振りをして、かかわりのない他人として過ごしているように見える。

これは……何をしてるんだろう?

 

 

「……人間のフリをしてる……? 力を使わずに、一人の個人として生きてたパターンってことか」

 

「“フリをしていた”わけではないが、概ねそういうことだ」

「宇宙の発生以降は全く手を加えず、最低の循環係数を維持したまま宇宙を順行させると、興味深いことにこのような世界が出来上がった」

 

「“フリじゃない”って何だよ……。それに、改変は無意識に起きてしまうこともあるんだろ? 手を加えてないって保証はどこにある?」

 

「手が加わっていないという事実は、結果から保証されている」

「そもそも、“手が加わらないように”世界を始めたのではない。“手が加わっていない”という結果を用意し、そこから逆算して因果律を構築しているのだ」

「ゆえに、この命題は無条件に真であるといえる」

「また、この構築が成立するには、私たちが因果律に強制投入型の干渉を行えるという事実を完全に忘却している必要がある」

「つまり、人間のフリをしているというより、自らを人間に近い生物個体だと思い込んで活動している、とでもいうべきだな」

 

 ふーん……。なるほどね。

 ……ん? 

 なんだろう。何か……何か引っかかるなぁ。今までの話とちょっと矛盾があるような。でも何なのか、どこなのか分からない。

 こんな時は、と思ってアレルやリュカさんやエイトさんの様子を窺ってみたけど、特に違和感を覚えていそうな感じではなかった。

 うーーん……ボクの気のせい……かな……?

 

「それで、疑問は解決したか?」

 

 3-Rは本を閉じ、手の上にまとめる。

 みんなビミョーな顔をしてた。

 

「……そこはなんとも言えないが……分かったことならあるな。あんたらが苦痛に思うのは傷付けられることでも殺されることでもなく、“何も起きないこと”。世界に加わる影響がなく、宇宙の順行が妨げられ、滞ることってわけだ」

 

 階段に座っていたアレルが脚を組んでそう言った。

 うん、確かに……そう言われれば納得できる。“何かが起きること”、それが大事なんだ。良いことだろうと悪いことだろうと関係なく、宇宙により大きな影響があり、より大きな変化が生まれること……。彼らは、その因果の動きを喰って生きている。

 だから、“特異な循環跳躍”という莫大な変化を宇宙にもたらす可能性を秘めたボクらを特別に気に掛けるというのなら、筋は通ってる……よね……。

 

「ふむ、その通りだな。であるからして、平和や生命を脅かし、損害を与える悪の存在もまた肝要なのだ」

「災難や苦役という苦みがあるからこそ、平和と自由は甘い。後者ばかりでは辟易してしまう上、腐敗が早まる」

「宇宙の寿命を、つまり人類の世界を長く持たせるためには、どちらもが平等に必要なのだ」

 

 なんか、言ってることがただの上位存在というより、いよいよ神様だ……。実際に宇宙の均衡を保ち、世界を守っていくための理屈は、綺麗事だけじゃ成り立たないってことか。

 ユーリルさんは苦々しく表情を歪めながら、手で額を押さえた。……気持ちは反論したくてたまらないんだろうけど、理論的にそれを述べることが難しいんだろうな……。

 

「嘘つけ。あくまで循環値を基準にしてるなら、その二者の価値は平等じゃない。どう考えても悪のほうが比重が重いだろ。平和な日々より大災害のほうが発生するエネルギーは大きいだろうし、幸福より苦痛のほうが感情として強い」

 

 助け舟を…ってわけじゃないんだろうけど、アレルが階段の上から異を唱えた。

 3-Rがにこやかに答える。

 

「必ずしもその限りではないぞ。例えば一人の人間が死ぬことで発生する循環値は、その人間が生まれて育つまでに発生する循環値を下回ることが多い。極度に高度な文明の場合は、滅びるよりも存続するほうが宇宙に大きな影響を与えることは想像に難くないはずだ」

 

「……あっそ。じゃあなんで、存続したほうがよさそうな文明をあんたは滅ぼすわけ?」

 

 致命的な矛盾点をつく問い。そうか、この流れに持っていくための反論だったのか。

 でも3-Rはまったく動じず、悪びれもせず、(あとなぜか嬉しそうに)平然と応じた。

 

「それは、単に私の趣味嗜好だ」

 

「なら初めからそう言えや」

 

 食い気味にアレルがツッコミを入れたけど、その通りすぎる……。

 

「潜在的な循環係数を底上げするという目的においては、確かに不合理なことかも知れない。おまえの言う通りだな。だが、永い時をかけて美しく綿密に作り上げられたものを蹂躙し破壊し尽くす快感には、どうも抗いがたくてな……」

 

 うっとりとため息をつく3-Rを、アレル含めみんなは今まで以上にドン引いた目で見ていた。もう言い訳のしようもなく、正真正銘の邪神では……? 

 

「変態だ~。ゾーマが変態ドSサイコクソ野郎だった理由がよく分かる。あいつの謎の絶望フェチも絶対あんた由来だろ。きもいわ~~」

 

 相手が怒らないからって言いたい放題だな……。まあ、その辺に関してはボクもうっすら感じてはいたけども。

 

「かも知れんな。しかし、なにもそれだけの理由ではないぞ。宇宙全体に過剰な損害をもたらす存在は、言うまでもなく排除する必要がある。そういった意味では、正義という立場としての悪の討伐そのものでもあった」

 

「ああ、うん……字面としては間違ってないんだけど」

「それ含めて性癖なのでは……?」

 

 だと思う。じゃなきゃ、わざわざ物理的な攻撃で滅ぼしていく必然性がないもの……。

 

「まぁでも、その性癖のおかげで“勇者”って概念が誕生したとも言えるわけですよね」

「性癖の産物なのかよ、勇者って……」

「……。なあ、一応、ほんとに念のため聞いておきたいんだが……子供がいた時期、あるよな? 確か3人。……自分がされたように育ててないよな? 強くするために何度も傷付けたり、殺したりとか……」

 

 恐る恐る訊ねるユーリルさん。心配に思う気持ちはすごくよく分かる……。

 3-Rは少し首を傾げて答えた。

 

「もちろんしない。剣術や呪文を教えはしたが」

 

「えっと……ちなみに、なんでだ?」

 

「無意味に怖がらせたり痛い思いをさせるのは、かわいそうだろう?」

 

 あまりに当然のように言うので、ユーリルさんは変な顔をしながら深く安堵の息をついた。

 やっぱり、一応そういう気持ちはあるんだなぁ。“無意味に”ってとこが重要なんだろうけど。

 

「……そう思うなら、なぜ……あんたにあんな仕打ちをした人類を恨まないんだ? ……いや、心のどこかでは恨んでるんじゃないのか? だからこそ、すべてを奪って滅ぼすことで復讐を遂げたんじゃないのか」

 

 3-Rは、どこか呆気にとられたような様子でユーリルさんに視線を返した。

 まあ……ボクらみたいな、比較的普通の感性を持つ立場から見ればね。そういうパターンのほうが理解が容易い。それと、たぶん、「理解してあげたい」って気持ちがユーリルさんにはあるんだと思う。

 そんな彼の胸の内を見透かしているのかいないのか、3-Rは目を閉じて小さく微笑んだ。

 

「そういった解釈も可能だな。どこかの計測層にはそんな私の姿もあるに違いない。たまたま、今おまえが目の前にしている私はそうではないというだけ。……なぜそうでないのかといえば、当時の私はあれで十分に幸せだったからだ。与えられるすべての恐怖と痛みに意義があり、耐え抜くことで価値を認められた。苦痛を対価に関心と愛を買うことができた。そして何より、文明の維持と発展に大きく寄与する存在と相成れた」

 

 ……「苦痛を対価に愛を買う」。その言葉に、ユーリルさんは大きなショックを受けた様子だった。たぶん彼ほどじゃないだろうけど、それはボクも同じ。

 

「……誰にも必要とされないことほど、寂しいものはない。その痛みに比べれば、毎日四肢を千切られることなど……。私は、人類には感謝していたのだ。私という存在を欲してくれたことを。願わくば、いつまでも彼らに望まれるようなものでありたかった」

 

 いつものように平坦で抑揚のない声。だけど伏せられた目元には、望郷と寂寥の影があった。気のせいじゃない。

 なんだか初めて、3-Rが人間に見えた。姿だけならボクらとほとんど変わらない、だけど恐ろしい神様や化け物にしか見えなかった彼が……。

 

「……というのが、かの計測層における私の弁だ。我ながらなんとも健気なものだな。しかし、いかんせん考え方が偏り過ぎている。自らの存在の拠り所を他者に託す姿勢はいただけんな」

 

 と思ったら、なんか他人事みたいに評価しながら3-Rは顔を上げた。

 

「……えっ? あんたじゃないの??」

 

「この場この時点における私が先の例のように育てられた保証はない。あくまで可能性のうちのひとつに過ぎんと言ったはずだが」

 

 ……そ、そうだけど……。ん?

 じゃあ今さっき見た光景は、ここにいる1_A01とは特に関係ないってこと??

 

「確かに私たちではあるが、この私たちとは限らない。既に伝えた通り、今この時点へ繋がる因果の膨大な階層のうちの一つだ」

「そも私たちがこうして人の姿をとっている場合自体、計測層全体のごく一部のみ」

「今はこの肉体を得ていることを前提に話をしているが、これは分類としていわば“超下層”。非常に稀有な可能性が幾重にも折り重なって初めて誕生しうる解釈なのだ」

 

 へ、へぇ……そうなんだ。ちょっと理解が難しいけど。

 下層へ行くほど複雑で、人間の姿に近くなる、みたいなことなのかな?

 

「え、じゃあ……今みたいな姿以外だとどうなるの?」

 

「霧や絵本、鉄釜、肉の柱、水霊、建造物、惑星、特定の形状や周波数……実に様々だ」

「最も本質に近いのは、この世を構成するあらゆる要素そのもの。おまえたち自身も、私たちで出来ている」

 

 ……??? ちょっと今日は意味が分からないことが多いな……。

 まぁいいか。なんていうか、理解できたらそれはそれでまずい感じになりそうだし。本能的にそう感じる。

 

「……さて、休息は十分だな。そろそろ鍛錬を再開するとしよう」

 

 ふいに3-Rが全ての本を一カ所に集め、階段に向かって歩き始める。

 

「えっ、もう??? 早くね???」

「7日7晩に対して1時間くらいしか休憩してないんですけど」

 

「うん? ……ああそうか、階段に触れていない者にはその程度の時間だったか」

 

 いや、まあ、そりゃ7億5千万年を何往復もしてたら“十分”だろうね……。あなただけだけど。

 

「せめてあと2時間……。仮眠とりたいっス」

「え、4~5時間は欲しいよ。あったかいベッドでゴロゴロしたい」

「お風呂に入りたいですわ! ここでは汚れないのはわかってますけど、気分の問題ですの!」

「腹も減ったしな~。同じく気分の問題だけどさ。なんか俺、今すっごくベイクドポテトが食べたい。小さい頃よくおやつにしてた……」

「あ、わかる。オレも無性にターニアが得意だったミートパイ食いたい気分」

 

 やいのやいのと要望を口にするボクらを見て、1_A01たちは微笑んで互いに目配せをしていた。小さく頷いた3-Rが積み上がった本を手に階段を昇っていく。それを横目に、4-Gや10-Oたちがテーブルやソファ、ベッドなんかを作り出してくれた。少し離れたところにはバスルームも。

 

「……うわあ、なんかいい匂いがしてきました」

「おっ、これこれ! 懐かしいな~。久しぶりに帰った日はいつもこれだったんだよ」

「……んーっ、美味しい! レックさんの妹さんも料理上手かったんだねぇ」

「ん? これってひょっとして……。あ、やっぱり。子供のころ里でよく食べてた山羊チーズの燻製ですねー」

「へ~。……ちょっとクセがあるけどなかなかイケるな」

「こういうものがすぐに出せるのは、同じ因果計測層の過去なら即時接続できるってことなの?」

 

「そうだ」

「特にここは5次元空間である。別の時間座標には座ったままでも手が届く」

 

 言った通り座ったまま、1-Rはどこからともなくお皿を取り出してテーブルに置いた。……なんか、黒い泥水っぽい液体の上に湿った藁みたいなのが浮いてるけど……。

 

「なにこれ?」

 

「さあ。“懐かしさ”を基準に、無作為な時間座標から持って来たゆえ」

 

「よくわかんねーけど、これも誰かの思い出の味ってことだよな。味見してみよっと」

 

 ロランが興味ありげに一口食べた瞬間、なんかアレフ様が「あっ王子、それは……」って席を立ってた。

 数秒後、ロランは息を詰まらせて盛大に床に崩れ落ちながら吐いた。

 え、なんなのこれ?

 

「わっ、だ、大丈夫ですかロランさん!」

「ぐふっ……。く…腐りかけた豚の内臓の臭いと奇妙な酸味と、焦げた鉄錆の触感が口いっぱいに……!」

「これは……おそらくローラ様が、私の誕生日に作ってくださった“スープパスタ”ですね……。期待に満ちた眼差しで目の前に座られたので、気合いと根性で完食しましたが、2日は寝込みました。なんとも懐かしい……」

「あ、そういう思い出」

 

 なんか今日、ロランも地味に散々な目に遭ってるな。好奇心とか勢いで真っ先に動きがちだからなー。……まぁその分、みんなの盾になってくれてるとも言えるけど……。

 

「しかしすげェ色だな……。何入れたらこんなになるんだ……」

「なんか泡立ってない?」

「……。……なかなか刺激的な香りですが、絶妙にクセになるお味です」

「ナイン……マジかお前」

「で、ではそれは全部どうぞ……! 遠慮せずに……」

「え、いいんですか?」

 

 ……そんな様子を眺めつつ、3-Rは階段の上で本を戻す作業をしていた。アレルは待ちくたびれたのか、階段の端に座ったままウトウトしてるみたい。ちょっとバランス崩したら大惨事になるのにすごい度胸だな。

 そのすぐ近くで、3-Rが最後の一冊をしまい終えようとした瞬間。

 うつらうつらと舟を漕いでいたアレルが急に目を開き、座っていた段についた手を軸にものすごい速さで蹴り上げを繰り出した!

 さすがにこんな危険な場所で仕掛けてくるとは思わなかったらしく、3-Rはかなり驚いた表情をしていた……でも、防がれた。首元めがけて放たれた蹴りは、手のひらで弾かれていた。惜しかったけどなぁ。……ん?

 どうやら咄嗟のことなのでけっこう力を込めて弾いちゃったらしく、そのせいでアレルはぐらりと大きくバランスを崩した。で……その身体が、傾いたまま宙に浮き……。

 

「あ゛」

 

 アレル本人からも、見ていたみんなからも、そんな声にならない声が漏れた。

 直後、大きな音を立ててアレルは階段を転がり落ちた。ボクらはみんな硬直しながら、何度も跳ね返って最終的に床に転がり動かなくなったアレルを凝視した。

 しーんと、その場が静まり返る。

 ……見てた感じ、打ちどころはそんなに悪くなさそうだったけど……問題はそこじゃない……。

 

「おやおや……」

 

 3-Rはため息をつき、ゆっくり階段を降りてくる。それから倒れたアレルと背後の階段とを見比べて、どれくらいの負荷が掛かったかを計算している様子だった。

 ……アレルは倒れ伏したままピクリとも動かない。嫌な予感。

 

「……ふむ。転んだ衝撃を加味してざっと見積もったところ、およそ38億1700万年。少しでも自我が残っていればよいが……」

 

「……だ……大丈夫か……?」

 

 恐る恐る、ユーリルさんがその肩を揺する。

 すると意外にも、数秒してから目を開いたアレルは、機敏な動作ですっくと起き上がり正座すると……

 

「ふぁいッ! ヴぉくいっぱ元気す!。今後ッとも何卒HappyHappyでfff!」

「駄目っぽいな」

「確実に駄目でしょ」

「お~い。オレたち誰かわかる?」

「A very fine MISO SOUP.」

「これキアラルで何とかなりそうか?」

「うーん……ユーリルさんも駄目だったし、厳しいかも」

「……自業自得だし、しばらくこのままでもいいんじゃない……」

「面白いですもんねー。こんちには~ぼくちゃん、お名前は?」

「もチョコぱだ。。」

 

 チョコぱんだかぁ……。生き物ですらないって点でスライムよりひどい。

 なんか知らないけどずっと上を見てるし、マントを噛んでもぐもぐしてるし、著しく駄目そうだ。準備なしで38億年経つとこうなるんだね……。でもまあ、言語機能の欠片だけでも残ってる時点でだいぶすごいんじゃないかな。

 

「はっはっは、そうかそうか……ともあれ、元気であればそれでよろしい。これからもそうであっておくれ、もちもちチョコぱんだよ」

 

 過去イチなんじゃないかなって満面の笑顔で、3-Rは屈んで両手でアレルの頭を撫でていた。子犬をこう、わしゃわしゃするみたいな感じで。……自分と同じ顔が白目剥きかけて口開けたまま正座してるのをよく直視できるなぁ。

 なーんて思って、眺めてたら。

 脈絡なく振り上げられたアレルの手が、ぺちっと3-Rの横っ面に当たった。

 

「え」

「あ」

 

「……」

 

 誰もが固まった。……けどその数秒後。

 さっきの記録を塗り替える不気味なほどの喜色満面で、3-Rはアレルを抱き上げた。

 

「素晴らしい! 莫大な時のうちで自我が崩れ去ってなお不意打ちを忘れぬとは、なんたる執念。見逸れたぞ」

 

「いや……たぶん違……」

「シーッ」

 

「実に見事な一撃だった。約束通り、“いいこと”を教えてやろう。いや、その前に褒美をやらなくてはな。何が欲しい」

「It has to be NEKOCHIAN.」

 

「一応は会話が成立してる……。まさかあいつ、本当にまだ意識が残って……!?」

「どう考えてもまぐれでしょ」

 

 

 ……約20分後。どこか別の場所に行っていた3-Rとアレルが戻ってきた。腕にはなんか絶妙にイラッとくる顔の、ネコっぽい生物のぬいぐるみ。どうやら正気に戻してもらったみたいで、アレルの顔や歩き方は普通になってたけど……なんか、なんともいえない表情してる。

 何を教えてもらったんだろ……。

 

「では、これから5時間ほどは引き続き休憩時間としよう。各自好きなように過ごすといい」

 

「わーい! 寝よ寝よ」

「僕もお昼寝しますかねー。いま昼かどうか知りませんけど」

「俺はその辺の本でも読もっかな……」

 

 ……みんなが思い思いに散らばっていく中、ユーリルさんだけはテーブルに残っていた。

 しばらくしてからちょっと気まずそうに、ちらっと1_A01のほうを見やる。

 

「……結局……俺にはよく分からないよ、あんたたちのことが。言ってることはやっぱり理解できないし、正直、自分たちのルーツだなんて認めたくない。仮に同じだけの時間を経験したとしても、あんたたちのようにはなりたくない……」

 

「そうか。少しばかり悲しいが、それで大いに結構」

「おまえたちには、おまえたちの思う価値と意義がある。それを心から信じられるうちは、何者かに譲る必要などない。例え私たちであってもな」

 

 にこりと優しく微笑みかけられて、ユーリルさんはばつが悪そうに視線を伏せた。

 

「……なんだか、じいさんと話してるような気分になってくるよ。悪い意味で。……自分がひどくちっぽけで無力で、世間知らずな子どもに戻ったみたいな感じだ」

 

「小さく無力で、ものごとを知らないというのは特権だ。存分に味わえ。…ただし、そんな者たちの成長を見守るというのも実に面白いもの。対象が、不自由で予測困難なものであれば猶更。私たちの永すぎる時間の中でも、最も幸福な瞬間の一つだ」

 

 カップの中身に反射した自分の顔を少しの間見つめた後、3-Rは紅茶を一口飲んだ。

 不自由で予測困難なもの……か。それが彼らにとっての理想であり最大の幸せ。どういうわけかボクらは、その理想にかなり近い存在ってこと……らしい。

 

「じゃあ、完成度の高い文明を破壊と殺戮で無に帰す時とどっちが幸せですかー?」

 

「……………………」

 

「そんなに悩むのかよ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところでアレルお前、あいつに何教えてもらったんだ? “いいこと”って?」

「……。…………言いたくない」

「なんで吐きそうな顔してるんスか……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おわり。

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