「……はぁ……はぁ……っ」

 

 どしゃっ、と崩れ落ちるようにして、最後まで立っていたユーリルさんが座り込んだ。足元に血だまりが広がり、重い音を立てて剣が床に落ちる。

 経過時間は……イヴィの端末を見ると、12分52秒。うーん。

 

「惜しかったな」

 

「あと8秒耐えていれば、この課題はクリアだった」

 

「30秒もたなかった最初に比べれば、目覚ましい進歩だがな」

 

 返り血にまみれた姿で、1_A01たちは平然と歩み寄ってくる。

 そして力尽きた人や気絶した人、重傷で動けなくなった人をまとめて回復してくれた。

 

「……う……ぐっ……。クソ……今回は行けると思ったのに」

「8秒ぐらい、誤差じゃねーかよ……! できたことにしてくれよ!」

 

「駄目だ」

「13分耐えると約束したのは、おまえたちだ。私たちの裁量でそれを覆すわけにはいかない」

「さあ、もう一度」

 

 血まみれのまま武器を構えてにじり寄ってくる彼らから、みんなはいい加減嫌気がさした様子で後ずさって逃げる。

 

「ちょっちょっちょっ、待ってくださいよ! ……もう7日、飲まず食わず眠らずで戦いっぱなしですよ!? せめてちょっとだけ休憩させてくれません??」

「そ、そうだよそうしよう! なんていうかもう、集中力切れちゃって……! いい加減燃料切れだよ!」

「ああ! ほら、適度にリフレッシュを挟んだほうが、効率的に進められるだろ……何事も……」

 

 及び腰になりながら必死に説得したら、ふと彼らの動きが止まった。

 

「……確かにな」

「集中力が落ち始めているのはその通りだ。このままでは効率が悪いというのも頷ける」

「茶でも飲んで、一息つくのも悪くはない」

 

 構えを解いたかと思うと武器をしまい、こっちに背を向けてすたすた歩き始めた1_A01を見て、ボクらは長く息を吐き出しながら胸を撫で下ろした。

 ……あんまり効果ないことのほうが多いけど、たま~にこうやってヒットすることもあるんだよな、“命乞い”。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……。……なんだっけこれ、“ほうじ茶”? 不思議な香りだよね」

「このお菓子も、ゼリーみたいな見た目の割にしっかりしてんな」

 

「水羊羹だ。ほんの少し塩を効かせることで甘味が引き立つ」

「それにしても、おまえたちは耐久力が伸び悩みがちだな。攻撃力や俊敏性は良いペースで成長しているのだが」

 

 テーブルにつき、お茶とお菓子でリラックスしながら、これまでのトレーニング成果を振り返る。

 ……この異次元空間で本格的な鬼トレが始まってから、はや6カ月。

 提示された“ダンジョン”をクリアしていく課題は順調に進んではいるものの、(精神的な)疲れがいよいよ蓄積してきたのもあってか、少しずつ力の伸び率が落ちてきているらしい。

 

「……。ずっと聞こうと思ってたんだが……俺たちを強くすることで、あんたたちに何の得がある?」

 

 お茶を飲む手を止めて、ふとユーリルさんが訊ねた。

 それ、前にも同じようなこと聞いてはぐらかされてなかったっけ、って思ったけど……一応黙っておいた。

 

「“理由なんかない、やりたいからやってるだけ”って話だったが……どうも納得いかないんだ。ただの娯楽や暇潰しにしちゃ綿密すぎる。何か、明確な目標があってそれを目指してるようにしか思えないんだよ」

 

「それはもちろん、乗り越えるべき壁を見据えてのことだろう。おまえたちがEVC8700-126に勝つという明確な目標のための」

 

「いや、そうじゃなくて……。じゃあ言い方を変えるが、俺たちである必要はあるのか? この、17_285_E121である必要性は。他の分岐をこんなふうに特別気にかけたり、直接世話を焼いたりはしないわけだろ。俺たちを、他の奴らみたく食糧にしないとしたら……その理由は?」

 

 1_A01たちは、揃って「またその質問か」とでも言いたげに間を開けてから、いつもの調子で答えた。

 

「さあ」

「もしかすると、何か特別な現象がもたらされるのかも知れないが」

「結果を見てみなければわからないだろうな」

 

「前に言ってた、特異な循環跳躍ってやつか? ……何か面白いことが起きそうだが、それがどんなことかは見当もつかないってことでいいのか?」

 

 するとふいに、大きなため息をついてアレルが茶々を入れた。

 

「なんか知らないけどやけにそこを気にするよな、お前は。本人たちがわからねーって言ってる以上どうしようもないだろ。それに、裏があろうがなかろうが、俺たちの目的を手伝ってくれてるんだからそれでいいんじゃねーの」

 

 本心なのか、逆にユーリルさんの本音を引き出そうとしての“釣り餌”なのかは判別しづらいけど、どうやら後者として作用したらしかった。

 

「いいや、本人たちにも分からないんじゃ余計に怖い。……俺は、世界に損害や不利益をもたらすような結果になることを避けたいだけだ」

「へえ。……つまりこいつらに従ってたら十中八九、そういう結果になると思ってるわけだ」

 

 アレルがせせら笑って目配せをする。

 その視線を受け取った3-Rは、相変わらず真意の読めない目で微笑み返した。

 

「それは……、……。わかった、もういいよ、正直に言う。……俺はあんたたちを信用してない。だって見てるものも考え方も違いすぎるだろ。何億とあるうちのたったひとつの宇宙や世界がどうなろうと、知ったこっちゃないって顔だ。何より一番引っかかるのは、悪の存在を看過してることだ。それどころか、いなくなったら困るとすら思ってる。……そうだろ?」

 

 思ってた以上にはっきり言い切ったものだから、ちょっと肝が冷えた。

 それは確かに、ボクも気になってた部分ではあるけど……今言わなくても。まあ、ユーリルさんのことだからこれでも相当我慢したんだろうな。

 

「ふむ。疑問に思うことがあるなら解決してやりたいところだが、おまえの言う損害や不利益、そして悪が何によって定義されるのかが不透明だ」

 

「俺が言ってるのは、普通に生きてる人間にとってのごくごく一般的な定義だよ。罪もないのに殺されるとか、生きていけないとか、虐げられるとか……。悪ってのはそれをもたらす存在だ」

 

「ほう。なぜそれを忌み嫌う?」

 

「なぜって……。……これを説明しないといけないから、“見てるものが違いすぎる”って言ったんだ。人が化け物に殺されるのがなんでダメかって? それが理解できないのは、絶対に殺されることがない立場だからだ。脅かされる恐怖や失う悲しみを知らないからだ!」

 

 ユーリルさんは声を荒げた。……この様子だとずいぶん、不満が溜まってたらしい。少ししてから「言い過ぎたかも知れない」って感じでハッとして、ユーリルさんは視線を伏せる。

 

「……それは少し能天気が過ぎるんじゃないかな、ユーリル。少なくとも僕には、彼らがそういった感情を知らないとは思えないよ」

 

 落ち着いた様子で、リュカさんがカップを置きながらそう言った。

 

「61兆年だ。僕らには到底、想像もつかないような途方もない年月……。それだけ長く生きておいて、恐怖や悲しみが何か分からないなんてことがあるだろうか」

「……それは……知ってはいるだろうよ、知識としては。でも理解はしてない。俺が言いたいのは……その、共感だよ。実際にその立場になってみないと、わからない気持ちってのが……」

「いや、わかっていると思うよ、そういう意味でも。だから“能天気”と言ったんだ。実際に存在を脅かされる恐怖や、大切なものを失う悲しみを身をもって体験すれば、彼らが考えを変えてくれるとでも思っているのかい」

「っ……」

 

 ぐうの音も出ないというか、身も蓋もないようなことを言われて悔しかったのか、ユーリルさんは歯噛みした。

 確かに……ボクもリュカさんの考えに近い気持ちだ。ユーリルさんとしては、弱者の立場や気持ちを理解すれば慈悲の心が湧いてくると、信じたいんだと思う。ボクらと1_A01の間に、それくらいの繋がりはあると。

 でも実際のところ、知れば知るほど露呈するのはどうしようもないほどの隔たりだった。

 同情すれば、共感すれば、助けてくれる。そんな当たり前の“人間性”はたぶん、期待するだけ損というか。こっちが疲弊するばかりだ。

 

「まぁでも、そうは言ったってさ……。あんたらだって嫌だろ? 何も悪いことしてないのに、理不尽に痛めつけられたり殺されたりするのは。ほんと単純な話でさ……」

 

 見かねてか、エックスさんがおずおずとフォローする。

 うーん、単純な話でまとまるんだろうか、これ。疑問に思いつつ、お茶を飲み下しながら1_A01の反応を見てみる。

 

「嫌だろうか」

「どうだろう」

「思い出してみなければわからないな」

 

 ……思い出す?

 

「……経験あるんですか???」

 

 目をまん丸くして、フォークを持ったままエイトさんが素っ頓狂な声を出した。

 ボクも驚いたし、“思い出さないと分からない”ってのも意味が分からなくて、同じように目を瞬かせていた。

 

「あったかも知れない」

「あった可能性もある」

「なかったかも知れない」

「なかった可能性もある」

「ひとつ確かなのは、どちらの可能性も確実に存在するということだ」

 

 ……。

 …………?????

 

「……すみません、ちょっと何言ってるか分かりません」

 

「可能性はあくまで無限に存在する。おまえたちが知覚するこの計測階層からは、どちらをも選び取ることができるというだけ」

「それはともかく、私たちが理不尽に痛めつけられたり殺されたりしたかどうかというのが、なぜこの議論に関わるのだ?」

 

「……え、いや、だから、ほんと小さい子どもに教えるみたいなことで……自分がされたら嫌なことは、人にしてはいけませんっていう。だから嫌だったかどうかが重要で」

「ま、まぁ自分が平気だからって何してもいいかって言うと、それもまた違う話なんだけどね」

 

「なるほど。痛めつけられることや殺されることは、無条件で嫌なことであるという命題に基づくのだな」

「私たちに当てはまるかどうかは現状として不明だが」

「それで、自分が嫌だと思うことをなぜ他者にしてはいけないと?」

 

「だからっ、ひどい目に遭ってつらいとかイヤだって思ったなら、“他の奴らに同じような思いはさせちゃいけないな”ってなるじゃん! だから、あんたらがそういうのをつらいと感じたかどうか確かめる必要があるじゃん!!」

 

「……理屈はよく分からんが、そんなに見たいというのなら見せてやろう」

 

 理屈はよく分からないのか……。

 とにかく、このまま話を続けていても平行線のままだと感じたのか、3-Rがゆっくりと席を立った。そしてこっちに背中を向け、右手を頭上に翳す。他の1_A01たちもそっちに視線を向けている。

 

 とその時、本当に突然何の前触れもなく、アレルがテーブルを飛び越えて3-Rに背後から斬りかかった。ロトの剣で、首を狙って。

 目に留まらない速さだったし、あまりにも唐突だったので誰も声すら出せなかった。

 でもその一撃は片手で防がれていた。腕以外は微動だにしないまま。

 手で掴んだ刃を簡単に折り、振り向きざまにその破片を使って、3-Rは一瞬でアレルを斬り飛ばしていた。

 

「ぐっ! ……」

 

 テーブルを大破させて吹き飛び、アレルは床を削りながら倒れ込む。一瞬だけすごく痛そうな顔をしてたけど、すぐに痛みを制御したのか、数秒後には平気な顔で起き上がった。そして折れた剣を放り捨て、舌打ちをして一言。

 

「ちっ。また失敗か」

 

 自分でベホマをかけたらしく、ざっくりと切り裂かれていた深い胸の傷が閉じていく。

 何が何だか分からず、ボクは粉々に砕けたテーブルやティーカップの破片を呆然と眺めていた。

 

「な……なに? なんなの? いきなり……」

「……あいつとゲームしてんだよ。戦ってる時以外のタイミングで、どんな手を使ってもいいから一撃入れてみろって。もしできたらイイこと教えてやるって言うからさ」

「えぇぇ……」

「やめようぜそういうの……心臓に悪いんだけど」

 

 3-Rはというと、例のごとくニヤニヤ笑いながら剣の破片をバリバリと食べていた。

 ……美味しいのかなぁ、オリハルコンって。

 

「おい、剣返せよ。食うなよ」

 

「また“迷宮”から調達してこい。心配するな、いくらでもある」

 

「…………」

「……こんなことする人たちに、“されたら嫌なことはやめよう”なんて通じない……か……」

 

 

 

 ……数分ほど待っていたら、3-Rに代わって頭上に手を翳していた4-Gが、「繋がった」と言って腕を下ろした。

 すると彼の眼前に、上へ向かってひたすら伸びる半透明な光の階段が現れた。

 

「なにこれ……階段?」

「どこに繋がってるんだ?」

 

「とても簡単に言えば、過去だ」

「ただし、別の因果計測層のな。ありえる無限の可能性に、あらゆる無限の解釈を重ね合わせた過去だ」

 

「因果…計測層?」

「さっきも言ってたけど、何なんだそれ」

 

「宇宙の平行分岐については理解しているだろう。ごく簡便に2次元空間で例えると、あれをX軸としたならばこちらはY軸とでも思えばいい」

「分岐した宇宙ごとに、それぞれ階層化が起きているのだ。基軸に近ければ近いほど層は厚く、計測結果の分散が大きくなる」

 

 うーん……わかんない。

 まあいいや。とにかく、ちょっと特殊な過去に遡れるってことだよね。

 

 

 

 

「時間の階段ってこと、かぁ……。なんか昇るのちょっと怖いな」

 

 目の前にある最初の一段を見下ろして、エックスさんが呟く。それを聞いて、10-Oがどこか感心したように笑った。

 

「本能的な勘が優秀なようだな。確かにおまえたちのような時間軸に生きる者にとって、この階段を昇るのは大変な作業だ」

 

「……? 何言ってんだ。普通に脚で上がれるんだよな? 長い階段くらいでへこたれるような鍛え方はされてねーし、あんたらだってそんな鍛え方してるつもりないだろ、っと」

 

 何ともなさそうな感じでロランが横を通り過ぎ、軽快に挙げた右足で最初の段を踏む。たん、と気味の良い音がした。けっこう硬い材質なんだな。

 ……。

 ……ん?

 ロランはなぜか、一段目に右足を置いてから全く動こうとしなかった。その体勢のまま硬直してる。

 

「……。ロラン? ど、どうした?」

「…………」

 

 エックスさんに恐る恐る声をかけられて初めて、ハッとしたように頭を上げる。ボクはその顔を見てびっくりした。真っ青だ。

 それからすぐにお腹や胸を押さえ、荒く息をつきながらロランはその場にうずくまった。

 

「なんだよ、腹でも下したか?」

 

 後ろからその様子を見ていたレックさんが笑いながら茶化して、興味津々といった様子で同じように右足を一段目に置く。

 その瞬間、同じように生気を失った顔をして硬直した。

 ……な、何が起きてるんだろう。

 

「……」

 

 訝しんだ様子のアレルが、背後から近づいて2人の腕を引っ張り、無理やり階段から離れさせた。

 すると2人はどさりと床にしりもちをつき、打って変わってキョトンとした顔でアレルを見上げる。

 

「……え? なんスか?」

「何ってなんだよ。様子がおかしくなったから戻してやったんだろ。お前もだよレック」

「は?? いや、今から階段のぼろうとしてたんだけど? なんで邪魔すんだよ」

 

 ……えっ??

 

「……。まさか……」

 

 何かに気付いたのか、ユーリルさんが階段に近付いて屈みこむ。そして指先でほんの少しだけ、一段目の縁に触れた。途端にその表情が強張る。

 

「ど…どう? ユーリルさん……」

「……ちょっと……待ってくれ。なあ、今っていつだ……?」

「へ?」

「いつっていうか……。そういや、いつだろうな」

 

 ユーリルさんは強張った顔のまま、階段の端に触った自分の指を見つめて深呼吸をした。次第に、その額には脂汗が浮き、血の気が引いていく。

 それから、驚くべきことを口にした。

 

「……し…信じられないと思うが……この階段に触ってからこうして喋れるようになるまで、たぶん……20年くらいかかった……。身体には何も作用してないが、俺の精神だけがそれくらいの時間を経験したんだと思う」

 

「その通りだ。階段に触れている面積と質量から算出して、厳密には24年ほどか。しかし全身が階段に乗っていないので、まだ決定事項ではない。わかりやすく言えば、指を離すとその記憶は消える」

 

 4-Gが後ろから声をかけてきた。

 えーっと……。ちょっと理解が追い付かないけど、つまり?

 

「過去に繋がってる階段って言ってましたよね……。もしかして遡る分だけ、同じ量の時間を経験しないといけないんですか?」

 

「そういうことだ」

「同じ因果計測層の過去へ接触するのとは、少々都合が違ってな。異なる階層へ行くには、やはり階層を移動するという過程が必要になる。それをわかりやすく階段で表現した」

「主にかかった質量と熱量に基づき、階層と時間の同時移動を行う。おまえたちの肉体はこの空間に固定されているため変化しないが、意識に関しては影響を受ける。でなければ移動する意味がないからな」

 

「え、じゃあ……ちょっと待ってよ。さっきのロランさんとレックさんはどれくらい……?」

 

「おそらく、16万年ほどを経験しただろうな」

 

 ……背筋がゾッとした。訊ねたアルスさんも、真っ青な顔をしている。

 

「……でも両足で乗る前に降りて戻ってきたから、それはなかったことになった。重力と時間と因果律がリセットされた。だからこいつらはその16万年を覚えてないってことだな。というより、経験しなかったことになった」

 

 顔をしかめて階段を見下ろしながら、アレルが腕を組む。

 

「その通りだ。……このように連続して昇り続ければ、かつてありえた過去のあらゆる可能性を一望することができるぞ」

 

 言いながら、3-Rはユーリルさんの横を通り過ぎて普通に階段を昇り始めた。1段、2段、3段……普通に10段目くらいまで。うわぁ……。い、一体どれくらいの時間が……。ていうか、昇りながらどうやって普通に喋ってるの……? 

 ドン引きしてたら彼はやおらに振り返って、片手の上に何かを2つ作り出してみせた。片方は煙を上げる……溶岩か何かの塊? ものすごい高温らしく、赤く光っている。それと、土に覆われた液体っぽいもの。

 3-Rはそれらを、軽い動作で階段の下へ放り投げた。ごん、ごん、と塊は階段にぶつかって転がり落ちる。そのたびに色や形や質感がどんどん変わっていって……。

 最終的に床に散らばったのは、きらきらと美しく輝く宝石だった。たぶん琥珀と、ダイヤモンド……。

 

「……。……ひっ」

 

 その意味を理解してか、ロランが怯えて後ずさった。

 

「へー。アホのくせに、今何が起きたのかよく分かったな」

「いや、だって……母上が贔屓にしてた宝石商がよく言ってたんスよ。この石たちは国や人間よりずっとずっと長生きで、神話の時代の遺物だって……」

 

 うん……ああいう宝石って、マグマや樹液が何千万年とか何億年って時間をかけて変質してできるものだよね。

 階段の上から落として原料から宝石になったってことは、階段では上から下に向かって時間が順行しているってこと。だから“過去に繋がってる”んだ。そして、経過したのはおそらく数億年。つまり3-Rはそれだけの時間を跨いだ。

 みんなも地獄みたいな顔でその宝石を眺めていた。

 いやー、平然とあんなことができる時点で、やっぱり存在としての質が違いすぎる。なんて言うか、化け物としか……。

 ユーリルさんは愕然としながら階段から指を離し、立ち上がった。すると階段に触ってた間の記憶が消えたらしく、不思議そうな顔で床に落ちているダイヤモンドを拾って眺めた。

 

「それらしい層はあるか?」

 

 同じく平然と、4-Gが視線をやって訊ねる。3-Rはしばらくうろうろと階段を行ったり来たりしながら辺りを眺めていたけど、ふと足を止めてどこかに目を止めた。

 

「ふむ……少し判別が難しい。“理不尽に痛めつけられているか”も、それを“つらいと感じていたか”というのも、あの子たちの主観的な価値基準だ。やはり本人たちに直接見て評定してもらわなければ」

 

 階段の下にいる人たちと会話できてる理屈もよく分からないけど、ボクの頭じゃ考えたって無駄だな……。

 なんて思ってたら、どこかわざとらしくため息をついて、3-Rはちらりとボクらを見下ろした。

 ひょっとして……。

 

「……俺たちに、そこまで行けって言うのか」

 

 思いっきり顔をしかめてアレルが3-Rを見上げる。

 彼は感情のない瞳のままにやりと笑って、空中から取り出した本をぱらぱらとめくった。

 

「私がここから口頭で伝えてもいいが……その場合、どうしても一度私の認知および解釈というフィルターがかかった状態となる。一次データを参照する場合より情報の質は落ちるだろうな。事実を確認したいというのであれば、これではあまり意味がないのでは?」

 

「……そこまで昇っていって直接見たとしても、降りてきた後にその記憶が消えるんじゃそれこそ意味ないだろ」

 

「もちろんそこは調整してやるとも。階段を昇るのにかかった時間のみ削除して、ここで見た情報の記憶は残してやろう」

 

 ……。そ、そうは言われてもなぁ……。

 

「え、ど……どうする?」

「俺はやだよ。絶対にやだ」

「僕だって嫌です」

「無理無理……」

 

 恐ろしすぎる階段を前にしてみんなで犠牲者を押し付け合っていたら、アレルが険しい顔で先頭に進み出た。

 

「……マジ?? 大丈夫かよ?」

「俺は自分の脳の働きをある程度操作できる。うまくやれば時間の知覚を麻痺させたり、記憶の累積を拒否したりできるはずだ。……この意識活動も丸ごと“肉体”に含まれるなら無理だが」

 

 3-Rは本を閉じると、こっちを向いてアレルを見下ろした。

 

「なるほど。では脳の活動のみ固定から外してやろう。無論、細胞が劣化して死に至ることはないようにな」

 

「そんな細かい調整できるなら、主観で歪めずに情報を伝えるくらい何てことないだろーがよ……」

 

 文句を言いつつ、アレルは階段の前に立つ。

 それから一度大きく深呼吸をして、……ゆっくりと、一段目に右足を下ろした。

 

「……うぐぁっ……!」

 

 瞬間、その顔が苦痛に歪む。皮膚が血の気を失う。

 ぐらりと倒れそうになったところをすんでのところで踏ん張り、アレルは息を詰まらせた。

 ……でもロランやレックさんと違い、呆然自失となることはなく、その視線はしっかりと上段に立つ3-Rのもとに向けられていた。脳機能の制御はできているらしい。

 そして、果敢にも左足を2段目にかける。さらに歯を食いしばった口から苦しみの声が漏れる。肩や手先が痙攣し、額には血管の筋が浮いていた。

 

「これで……何年経ったんだ?」

「だ…大丈夫なのかよ、本当に……」

 

 みんなが心配そうに見守る中、アレルはゆっくりと“時間をかけて”、1段ずつ階段を昇っていった。涙なのか他の浸出液なのか分からないけど瞳は潤んで、鼻から血が滲んでいる。

 ……6段目くらいで、さすがにしんどいのか、アレルは一旦足を止めた。

 

「ぐ…ぅ……ッ、……!」

 

 ぜぇぜぇと息を切らせて項垂れた苦しそうなアレルに、見かねた3-Rが「仕方ないなぁ」と言いたげな様子で階段を降りてきた。

 隣に立って肩を優しく支え、それから「もういい、十分頑張った」とでも声をかけるのかと思いきや……。

 無情にも腕を引っ張って、強制的に7段目を踏ませた。

 

「ぐがッ……!!」

 

 十分に準備できていなかった状態で次の段を踏んだからか、アレルの眼は血走り、全身が大きく痙攣した。

 

「さあ、頑張れ。あと半分だ」

「うぐっ、うぅぅ……っ。待…っがぁ、ぁ゛……っ」

「上に辿り着いても自我が崩壊していては意味がない。気をしっかり持て」

「ぎゃあぁあぁッ……!」

 

 優しい手つきで背中と腕を支えて、だけど容赦ないペースでどんどん引っ張り、階段を昇らせる。その笑顔は明らかに労わりや慈悲ではなく、嗜虐の愉悦から滲み出たものだった。

 なす術もなく引っ張られ、あまりの負担と苦痛に胃液を吐きながらも、アレルは3-Rを睨みつけていた。

 

「こん…の…っ…性悪サディスト野郎……!!」

「ふふふ。意識ははっきりしているようだな」

 

 13段目まで昇らせると、3-Rは脚を止める。そして空中からさっきの本を取り出すと、今にも意識が飛びそうな様子で喘ぐアレルに手渡した。

 

「さて、どう思う?」

「はぁ、はぁ……。どうって……」

 

 まだだいぶ体調が悪そうだけど、アレルは渡された本を開いてぱらぱらと眺めた。概念領域の本や資料と同じように、その光景がはっきり見える感じのやつなのかな?

 ……しばらくしてから、アレルは変な顔をして視線を上げた。

 

「……。なんだこれ。意味が分からない。いや、だいぶ理不尽だとは思うが……」

「わからんのか?」

「なんつーか……この人間たちは、どういう気持ちでこの実験をしてんだ? 何をしてるつもりなんだ?」

「していることはストレステストの類だろうな。どういう気持ちでしているかというのは、この問題に関わるのか?」

「……関係ないかもな。まあいいや。つらいとかつらくないとか、ひどいとかひどくないとか、そんな次元の話じゃないってことがよく分かった」

 

 しかめっ面で本を閉じ、3-Rに返すと、うんざりした様子でアレルは階段に座り込んだ。あれ、もういいのかな。

 

「おーい、それで? 結局どうだったんだ??」

 

 ユーリルさんが下から声をかけると、数秒してからアレルが気付いてこっちを見た。ちょっとタイムラグがあるらしい。

 

「気になるならお前も来て、直接見ればいいよ。自分たちの価値観や考え方ってのがいかに偏ってて、狭い世界しか視野に捉えてないかがよく分かるから」

 

 なんか遠い目でどっかを見てる……。何が書いてあったんだろう……気になるな……。

 

「う……。見に行きたい気持ちはやまやまだが……俺にはこの階段を耐えられるかどうか」

「クリアでなんとかならないんですか? 僕らの脳に刺して言語野の機能を操作したりとかはできたじゃないですか」

「んー……。やりかた自体は、理論的にはいくつかあるんだが……。問題は俺の技量で、そこまでできるか……」

「……あのさ、気になったんだけど。この階段って全身が乗っからなければ、時間の移動は“確定事項”にはならないんだよね。この床に立ったまま、あの本をクリアで触ったらどうなるの?」

 

 ふとアルスさんがそう言ったのを聞いて、ユーリルさんはぱっと顔を上げた。

 

「そうか! 俺なら階段に触らずに本の内容が見れるのか! なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだ……ありがとな、アルス」

「え? いや、気になったから言っただけで……」

 

 お礼を言うや否やユーリルさんは立ち上がり、たぶんさっそくクリアを階段の上に向かって伸ばしたんだと思う。

 上にいる3-Rは、会話を聞いていたようで「はいどうぞ」って感じで本を差し出している。

 で、おそらく、クリアが開かれた本のページに触れたと思われたその時。

 

「っ……!」

 

 ユーリルさんの顔が強く引き攣り、目が見開かれた。

 すごく悲痛な表情だ。一体何が……。

 

「……だ、大丈夫? 何が見え……」

 

 ただごとじゃなさそうな様子なので、恐る恐る声をかけてみると。

 

「それはそれは大変なメダル集めだった。……やっぱり熱気球の唐揚げですかね。うん、空気より軽いごぼうサラダだ、夜にはピカピカのフルハウスですってよ!」

「……へ?」

「ふふっ……ははは。寝取られたらそれはもうバターのぐるぐる巻きだよ。別にベホイミでも中出しでもいいけど? へへっ」

「……」

「……」

「……これは……」

「……なんかまずいことになったな」

 

 焦点の合わない目で、ヘラヘラ笑いながらわけのわからないことを口走るユーリルさんを眺め……ボクらは顔を見合わせた。

 

「さもありなん。クリアを通し、脳神経に7億6200万年分の負担が一度にかかったのだからな。自己の連続性が崩れても不思議はない」

 

 当然のようにそう言って本をめくる3-Rを、アレルが白い目で見ている……。

 先に教えてあげなよ……。っていうか、どうするの、このユーリルさん。

 

「あー、ユーリル? おーい、自分の名前わかるか」

「ぼくちゃんスライムよ、うふふふ……」

「駄目そう」

「私が誰かわかりますか?」

「おっ゜て」

「駄目だこりゃ」

「キアラルは?」

「やってみようか。……えいっ。……うーん、手応えないや」

「修復不可能なレベルでぶっ壊れたか……」

「たぶんこれ、効いてないよねぇ。ユーリルさん、1たす1は?」

「もょもと」

「駄目だね」

「駄目ですね」

 

「クリアを本から離せば治る。心配するな。それより、他に階段を昇れる者は?」

 

 3-Rに呼びかけられたけど、誰ひとりとして名乗りを上げない。そりゃそうだよね、ユーリルさんの惨状を見たら。

 なんかアレルもぼーっとしちゃって当てにならないし、これは諦めるしかないかもなぁ。

 と、思ってたら……

 

「仕方ない。多少手間がかかるが……」

 

 なんて言いつつ、3-Rは何冊かの本をまとめて持つと、そのまま普通に階段を降り始めた。

 その光景自体はなんてことないものだからしばらく反応できなかったけど、よくよく考えてみて、結果としてボクらは叫んだ。

 

「……持って来れるのかよーーっ!!??」

「じゃあ最初からそうしてくれればよかったじゃない!!」

 

「言っただろう、手間がかかるのだ。それに自力で階段を昇ると言い出したのはアレルであって、私は“直接見なければあまり意味がない”としか伝えていない」

 

「うーん確かにそりゃそうだけど!」

 

 いやぁ確信犯でしょ、これは。どう考えてもアレルの負けず嫌いに付け込んでおちょくったとしか。

 なんか、だいたいどの世界でもアレルの性格がヒネくれてるのって、この人のせいなんじゃないかなって……。

 

「……ん……。……あれ? なんで下りてきてるんだ? ……あっ」

 

 触っていた本ごと3-Rが戻ってきたからか、ユーリルさんが元に戻った。記憶が欠落してることから、なんとなく何があったか察したらしい……。

 それにしても、彼が本を持ったまま戻っていった時のアレルの顔ったらなかったな。

 

「それで、具体的にはどんなものが見たいのだ?」

 

「……あぁ、えーと……別に、具体的に何がってわけでもないんだが……」

 

「って、おい!! おいコラちょっと待ておい!! 俺はここに放置かよ!? あんな無茶苦茶させといて!!」

 

 階段の上に取り残されたアレルが喚く。うん、これはさすがにキレていい。

 3-Rはというと、例によってまったく悪びれもせずのんびりと振り返った。

 

「……ん? ああ、すまない。失念していた」

 

「失念するな!!!」

 

「またあとで迎えに行ってやる。下手に周りに手を出すと、今の消耗したおまえには命取りになるだろう。そこで大人しく待っていなさい」

 

 ぎりぎりと歯軋りするアレルを放っておいて、3-Rは持ってきた本を空中に並べて整理する。

 それらを眺めながら少し悩んだ後、エックスさんは顔を上げた。

 

「とりあえず最初に何があったか……一番気になるのはこれだな。最初にあんたらが作られた時、人類にどんな扱いをされてたのか」

 

「ふむ……“最初”か」

 

 空中に浮かぶ本のうちのひとつが光に包まれて分裂し、無数に増殖した。……これは……ものすごい数だ。一体どれだけ……

 

「これが“最初”だな。少なくとも、65535回はあるようだ」

 

 ……?

 

「はぁ?」

「どういうこと? 最初って、一番初めのことなんだけど。6万……?」

「……あっ、そういうことか。“最初の一回”ってのを6万回繰り返したんだろ? 現実を操作する力で“やり直して”……」

 

 あぁ、なるほど。

 

「そういう解釈もできなくはない。もう少し厳密に言うと、“繰り返すことのできる可能性”がそれだけある、といったところか」

 

「……ん?」

「えーっと……」

「それは、さっき言っていた“Y軸”……因果計測層のことかい? 宇宙の分岐である“X軸”とは別の。つまりその6万いくつというのは、すべて1_A01での出来事という意味か」

 

「そうだ。私たちの“作られ方”や“生まれ方”が65535通りあった、と表現しても良いな。地図の上で同じ場所を目指すにしても、道のりは一つではないだろう? 陸地を通るルート、海上を行くルート、空を飛んでいくルート、遠回りや最短距離……それこそいくらでも」

 

「ふーん。……なんとなくわかるけどよ、それって“X軸”とは何が違うんだ? 要するに別の道を通ったってことじゃんか。分岐ってことじゃないのか?」

 

「分岐は、それぞれ辿り着く結果が異なる。“枝分かれ”だ。こちらは“階層”。過程やそれに対する解釈が異なるのみ。因果が辿る果ては同じ一つの点だ」

 

 へぇ……。ってことは、同じ1_A01とか17_285_E121とかっていう分岐の中で、さらに過程の分岐が起きてるのか。ただ、辿り着く点が同じだから“枝分かれ”ではない。

 でも、外側じゃなくその世界の中で生きてる存在からすると、どこまでが過程でどこからが結果なのかなんて知る術はない。その世界の終わり……つまり結果を知ることができる立場だからこそ、その違いが分かるんだ。

 ボクらがいま話してるのって、本当に“宇宙の外側”にいる上位存在なんだな……。

 

「とりあえず理解はできました。でも、6万5千通りの出来事を全部見るのはちょっと……」

 

「そう言うだろうと思い、厳選したぞ。まずは先ほどアレルが見たのと同じものを」

 

 浮かんでいる異様な数の本のうち、一番近くにあったものがすっと目の前に出てくる。

 触ればいいのかな? と思って手を伸ばそうとしたけどそうするまでもなく、本はひとりでに開いて光を発し、ボクらの視界を覆った。