ふとスケボーしているときに浮かんできた努力という言葉について少し思ったことを書いていきたい。よく小さい頃両親や、学校の先生に努力しなさいと言われていた気がする。努力という言葉を辞書で引くと「目標を実現するために、心や身体を使ってつとめること」という意味だ。そもそも目標を設定せずにむやみやたら努力しなさいというのはいささか押しつけだ。自分の好きなスケボーを喩えに考えてみる。新しい技を習得したい、練習をする、結果その行為は目的を実現するために努力していると言えると思う。何もスケボーに限った話ではないが。ここで気づいたのが、努力という言葉はそもそも押し付けていうのではなく、誰かを称えるために使う言葉なのだと。

 

文章をまとめるのは苦手だな

今朝は7時起き、ランニングするために近くの公園を走った。村上春樹みたいに毎日10kmを走ることをを目標にしているが、なかなか毎日こなすことが出来ない。ランニングをこなすという概念で捉えている時点で誤っていて、ニートの自分にとって自由気ままに生きてるとバチが当たりそうな気がする。神様はいつでもどこでも、いいことしている時も、悪いことを犯している時も見ているからまた明日からしっかりと走って行こうと思う。

 

ランニングを終わった後は、外出自粛ムードの中お花見をしに行ってきた。どこの馬の骨の子でも毎回会ってくと我が子のように可愛く思えて、愛おしく思えてくる。そして改めて思うことだが、世の中の子供を育てている母親は立派で、勇敢だ。自分が当時幼稚園の保育補助として働いていた時のことだが、週一の三時間という情けないシフトに見えるが結構な体力を要する。感情の浮き沈みが激しくいちいちそれに振り回されているようじゃ一時間とも持たない。自分が一家の主人になったときは全力で奥さんを支えたいと心底思えた瞬間だ。

 

 

ニートといえば、早速明日から仕事が始まる。

 

 

3月の頭に前職のコーヒー屋をやめて、フリーターになり約2週間がたった。

 

一人暮らしから実家に戻り、店舗の店長から無職になり、一気に責任という括りから解き放たれたそんな気分だ。気楽で自由な心持ちの自分に対して、どこか心細く不安に感じる自分もいる。その自由に溺れてしまわないように、戒めるためにランニングを始め、それは自分にとって感情を空白化にさせてくれて、フラットに物事を考えさせてくれる。

 

ありがたいことに4月から都内某飲食店に社員といて勤務することが決まり、一応生まれて初めて社会人というのを体験することになる。これまでまともな人生を送る機会はたくさん与えてもらったが、自発的にまともな人生を選んでこなかった自分にとって地に足がつくような感覚だ。正直親が自分の就職にとてもと言っていいほど喜んでいる。25年間生きてきて初めて親が何を望んでいるのか認識できた瞬間だ。

 

こんなこと言っても誰も感心はしないと思うし、自分も胸を張って嬉しい気持ちにはならないが、それでも自分を受け入れていくしかない。生まれながらにして成長が早い子がいるのと同時に成長が遅い子がいるように、自分は後者の方でこの地球に誕生したのだ。