前回の続き、白居易(はくきょい)の言葉です。

身適忘四肢 身適ならば四肢を忘れ
心適忘是非 心適ならば是非を忘る
既適又忘適 既に適にして又た適を忘れ
不知吾是誰 吾は是れ誰なるかを知らず

「身体が適の状況であれば手足の存在を忘れ、精神が適であれば是非の判断を忘れ、さらに適であるうえに適であることを忘れれば、自分が誰かという判断さえ忘れてしまう。」

「机に隠る」(つくえによる)という詩の中の一部分です。
この詩の中には「壮士」「孟子」の用語が引かれていて、白居易の哲学論なんでしょうね。

白居易にとって、「心身の適」は永遠の課題だったようです。
彼は若い頃、杜甫も就いた事のある「左拾遺(さしゅうい)」という官職に就きます。その頃は「経世済民」の情熱を燃やし奮闘していたようですが(この頃が前回記事のような反戦詩を多数作詩)、晩年になると彼は自分の詩を後世に残そうと意図的に、かつ意欲的に取り組むようになります。

そして官職の多忙・閑職どちらの中にあっても”適”を見いだそうとします。
”適”を見いだすとは、心の平穏の事でしょうか。
白居易は当時の人としては異例の長寿を全うするんですが、それが後世の詩人達の「理想像」になっているようです。

それにしても、適であれば四肢を忘れ、善し悪しの判断も忘れ、最終的に自分さえも忘れる・・・という境地。なかなか達せるものではありませんね(笑)
しかし白居易いわく、この閑適の境地は自己の努力で決定できるものだそう。

もっと白居易の詩を読んで、彼がいかなる努力をしたのかに迫りたいと思いますにひひ