3.11に寄せて

震災の当日は、深夜勤務明けで寝ていた私。午後に起きて、シャワー入ってさぁ、髪洗うぞって髪を濡らしはじめた時にケータイの不穏な警告音が洗面所から聞こえたと思ったら地震が来て、「カチッ」って音がしてブレーカーが落ちた。

「地震!!」

と同時に、シャワー冷たっ。水やん。

テレビ見ようにも電気系統使えんし、当時はスマホじゃなかったから、状況わからんし。

当時、赤十字病院に勤めていたので、震度5以上の地震の時は社員全員出社という緊急時対応があったので、濡らした髪を拭いて結んでお団子にして、着替えて出社した。

停電のせいで道路が混乱している中、震える手でハンドル握って恐る恐る交差点を右に曲がって病院に駆けつけた。

病院も混乱していて、余震が続いていたから、「個室の患者さんが不安だろうからついていてあげて」と言われ、病棟もバタバタしていた。

そんな中、休日出社したものは災害対策本部に来なさいと命令があり、医局に向かった。
医局ではすでにDMATの準備が始まっており、救護服に着替えた医師が、非常電源につながっているテレビで情報を集めていた。
ため息とも悲鳴ともいえぬ「あ〜ぁ」という声がもれる。
今までにない津波の光景がテレビに映し出されていて、現実なのか夢なのか、私の魂は半分どこかの世界に持って行かれた。
今でもその感覚が残っている。

翌日盛岡にヘリで救急車搬送されてくる人の向かい入れをする救護活動に着いたのだが、阪神大震災とは違い、多くの人は津波に飲まれて拐われてしまったか、生きているかの両極で、救急搬送級の怪我などの人はほとんどいなかったのだ。

その数日後、沿岸に救護活動に行ったのだけれど、海に近づくにつれて、瓦礫の山が多くなり、残されている建物も大きな病院とかショッピングモールだっただろう建物だけで、民家は無かった。圧倒的な地球の力を思い知り、救護所に行くのが怖くなった。
実際着いたら私のできることなど何もなくて、ただただ言われたことをこなすしかなくて。
みんな生き延びることに精一杯で、本当に何もできなくて悔しかったし、虚しかった…と今になっても思う。

私の関わった、中学生くらいの男の子2人とお母さんの3人家族のことが毎年思い出される。お父さんは亡くなったのだろうか、それとも元々シングルマザーだったのだろうか。体育館の端っこの方で生活していて、やっと内陸の避難先に行ける順番になったと話していたのに、インフルエンザにかかってしまい、避難延期になってしまった。

私が関われたのは2日くらいなものなので、その後どうなったのかと、毎年この時期になると思い出す。
どうか生き延びて幸せでありますようにと祈ることしか私にはできない。
毎年今日という日は涙してしまう。

そんな12年後の今日という日に佐々木朗希くんが日の丸を背負って世界と戦う。

当時の私は今日のような日が来るとは思えなかった。
そんな今日という日まで、沿岸の人たちも懸命に生き抜いていたんだなと歳月を思う。

人の命に、今生きている幸せに、これからも生き抜く覚悟と、幸せであるように祈りを捧げたい。