2025/5/18

十重禁戒

 

「苦」の人生をいかに生きるか。

「仏陀(ブッダ)は確かに「この世は苦である」といいましたが、亡くなる前には「この世は美しい。人間の命は甘美なものだ。」といっていました。

これは「苦であるがゆえに、そこに美しいものが生まれてくる」という仏陀(ブッダ)のひとつの悟りであったように思われます。

涅槃へ至る八つの道筋を指し示した「八正道」煩悩を消して真実の人生を生きるための方法ということから出てきたのが、先にふれた四諦であり、また八正道といった考え方です。

仏陀(ブッダ)の亡くなったあと、原始仏教が大乗仏教から生まれた六波羅蜜という考え方も含めていいでしょう。

在家信者が守るべきものとされた五戒などもそうでしょう。

 

中略

 

②「仏陀の教え」は、

不説四衆過罪、

不自賛毀他戒、

不慳貪戒、

不瞋(怒り)恚戒、

不謗三宝戒、

 

仏教において沙弥および沙弥尼(見習いの僧侶・小僧)の十善戒のもう一つもまた違う。

不著香華鬘不香塗身、

不歌舞倡妓不往観聴、

不坐高広大床、

不非時食、

不捉持生像金銀宝物

ただしこれについては単なる僕の興味である。

 

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十重禁戒

不説四衆過戒 以下

 

せつししゅかかい/説四衆過戒

菩薩比丘びく・比丘尼びくにに罪があると吹聴することを禁じた戒。このようなことを誰かに教えて、させることも禁止されている。十重禁戒の第六番目の戒であり、波羅夷はらい罪である。この戒の名は『菩薩戒義疏下によるもので、不説他罪過戒、説過戒、説四衆名徳犯過戒、説他罪過戒などともいわれる。菩薩は、仏教徒以外の人や声聞仏教の中に罪過があることを非難するのを聞いた場合、憐みの心をもってそのような人々を教化し、大乗仏教への信仰を生じさせるべき存在である。しかしこれに反して、菩薩自身が仏教中に罪過があることを説くならば、波羅夷罪とされる。

 

十重禁戒

 

じゅうじゅうきんかい/十重禁戒

菩薩が必ず守るべき十種の戒。これを犯すと菩薩の資格が失われる戒である。また十波羅提木叉はらだいもくしゃ、十波羅夷はらいなどともいわれる。十重禁戒は『梵網経』を典拠とするが、『梵網経』にこの語は見出されず十重波羅提木叉として紹介される。十重禁戒は、円頓戒の戒法である三聚浄戒の第一・摂律儀戒を構成する戒であり、以下の十種が説かれる。

殺戒せっかい(不快意殺生命戒)ふけいせっしょうみょうかいとも。生き物を殺さない

盗戒とうかい(不劫盗人物戒)ふこうとうにんもつかいとも。(盗みを働かない)

婬戒いんかい(不無慈行欲戒ふむじぎょうよくかい)とも。出家者は性交渉をもたず、在家は不倫をしない)

妄語戒もうごかい(不故心妄語戒)ふこしんもうごかいとも。噓をつかない)

酤酒戒こしゅかい(不酤酒罪縁戒)

ふこしゅざいえんかいとも。酒を売らない)

説四衆過戒せつししゅかかい(不説他罪過戒)ふせつたざいかかいとも。出家・在家問わず仏教徒の犯した罪を吹聴しない)

自讃毀他戒じさんきたかい(不自讃毀他戒)

ふじさんきたかいとも。自ら威張り散らし、また他人をそしりけなさない)

慳惜加毀戒けんじゃくかきかい(不慳生毀辱戒)ふけんしょうきにくかいとも。他人に与えることについて惜しまない)

瞋心不受悔戒しんじんふじゅげかい(不瞋不受謝戒)ふじんふじゅしゃかいとも。謝罪に対して、怒りをもって応じ、それを受け入れないということをしない)

謗三宝戒ほうさんぼうかい(不誹謗三宝戒)

ふひほうさんぼうかいとも。仏・法・僧の三宝をそしらない)。

この十種が十重禁戒であるが、これらの戒はそれぞれ自らが犯さないことはもちろん、他人にも犯させないようにすることが要求されている。

 

婬戒いんかい

酤酒戒こしゅかい

説四衆過戒せつししゅかかい

自讃毀他戒じさんきたかい

慳惜加毀戒けんじゃくかきかい

瞋心不受悔戒しんじんふじゅげかい

謗三宝戒ほうさんぼうかい

 

⑩ある内の7つの戒めについて、

十善戒とは趣が違う。

③については、出家と在家では明確に戒が違うことが分かった。

⑤については、飲むだけでなく売ると言う事に触れられている。

僕は思うのだが、

手を汚さずに心を汚し生活の糧とする。

これもまた興味深い。

この世の中にはそんな事がいっぱいあるのだ。

現代の世の中はそんな事の連続だ。

だからこそ罪悪感は薄まり、

それがいいことなのか、

それが悪い事なのかすら論じられなくなる。

論じても仕方ないと言う事になる。

 

⑦が興味深い。

威張り、

他人を誹る事は現代人の得意技である。

どんな組織にも、

声が大きく、

体も大きく、

押し出しの強い人がいて、

そうでない人を従えて行く。

何故あの人は誰からも恐れられ、

何故あの人は誰からも許されるのだろう、

何故あの人は誰からも一目置かれるのだろう。

と思うのだが、

人はそれを人徳と嘯く。

何の反芻もせず彼の破るルールを見過ごす。

 

いやいや、これは出家者のルールだと、

あなたは言うかも知れない。

でも良く読めばこれは、

一般人でも十分に守るべきところである。

特に無礼講の日本人には戒める事が多い。

 

⑧については、

僕は某国にいる頃良くお寺で、

タンブンをしたものだ。

物惜みをした覚えは無いが、

道端の物乞いを見て、

あれはやればやるほど癖になるのでやめろと、

得意になって人に言った事がある。

そのタンブンは物乞いの為でなく、

自分の為にやっているとは、

後で知った。

 

⑨については、

人は人の運命を握るような場面になった時、

人は不思議と尊大な態度に出る。

人はその人と同じ立場にあった時、

その人がどれだけの不安であるか、

分かっているにもかかわらず、

人は不思議と尊大な態度に出る。

君が許せばそこまでなのに、

君は許そうとしない。

何故なら、

自分が同じ立場になった時、

果たしてどうであろうかと考えるからである。

誰かが仲介に入って許す場合もある。

それらの執着は全て、

自分の永遠の財産ではなく、

いつか消えて行くものである。

許すべきは相手ではなく彼自身なのだ、

 

十重禁戒の最後の戒は、

謗三宝戒ほうさんぼうかい、である。

これについては何も僕の愚見を挟む予知は無い。

そして願わくば、

仏教が誤解されない様にしてもらいたい。

仏教は呪文を操る宗教では無く、

仏教は奇跡を操る宗教でも無い、

全ては道理がベースにある宗教である。

道理とはそれらよりもはるかに、

人間にとって、

不思議で、

公平で、

素敵なものであると僕は思う。

 

合掌

 

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