2025/4/27

十善戒 不邪見

 

「苦」の人生をいかに生きるか。

「仏陀(ブッダ)は確かに「この世は苦である」といいましたが、亡くなる前には「この世は美しい。人間の命は甘美なものだ。」といっていました。

これは「苦であるがゆえに、そこに美しいものが生まれてくる」という仏陀(ブッダ)のひとつの悟りであったように思われます。

涅槃へ至る八つの道筋を指し示した「八正道」煩悩を消して真実の人生を生きるための方法ということから出てきたのが、先にふれた四諦であり、また八正道といった考え方です。

仏陀(ブッダ)の亡くなったあと、原始仏教が大乗仏教から生まれた六波羅蜜という考え方も含めていいでしょう。

在家信者が守るべきものとされた五戒などもそうでしょう。

五戒とは

  • 不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物をみだりに殺してはならない。
  • 不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗みを犯してはならない。
  • 不邪淫戒(ふじゃいんかい) 道ならぬ邪淫を犯してはならない。
  • 不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはならない。
  • 不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではならない。

の五つですが、これらを生活の中で習慣化して実践することが大事だという具体的な戒律です。

また仏陀(ブッダ)は精神を統一して雑念を払い、禅定の境地に入ることを説き、さらに日常生活の中で身につけていく智慧の重要性を説いています

この戒律と精神統一と智慧を仏教では「戒・定・慧の三学」と呼んでいるようですが、修行によってこの三つを身につけることで人間は「諸々の汚れから完全に解脱する」ということになります。

 

参考

この五戒律に次の五つの戒律が加わったものを十戒律と呼んでいます。

 

十戒律(五戒律も含みます)

  • 不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい) 他人の過ちや罪を言いふらしてはならない。
  • 不自賛毀他戒(ふじさんきたかい) 自分を誉め、他人をくだしてはならない。
  • 不慳貪戒(ふけんどんかい) 物おしみしてはならない。
  • 不瞋(怒り)恚戒(ふしんにかい) 怒ってはならない。
  • 不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい) 仏様の教えや仏法伝道の僧をくだしてはならない。

このように、正しい生活をして自分自身の完成に努めなければ、本当に人を救うことはできないということです。

 

ただ、誤解してならないことは、自分はまだ完成していない人間だからとても人を助け導くことはできない、という考えを持たないことです。

 

自分だけの生活に囚われてしまえば、返って自己の完成はできないのです。

 

人のために尽くすということも持戒の大きな要点ですね。

人のために尽くすことによってそれだけ自分も向上し、自分が向上することによってそれだけ人にも尽くせるようになる、この二つは無限に循環していくと思います」

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①真言宗の十善戒の次は、

不邪見、

 

②「仏陀の教え」は、

不説四衆過罪、

不自賛毀他戒、

不慳貪戒、

不瞋(怒り)恚戒、

不謗三宝戒、

 

仏教において沙弥および沙弥尼(見習いの僧侶・小僧)の十善戒のもう一つもまた違う。

不著香華鬘不香塗身、

不歌舞倡妓不往観聴、

不坐高広大床、

不非時食、

不捉持生像金銀宝物

ただしこれについては単なる僕の興味である。

 

邪険

 「さて今回は、10番目の「不邪見(ふじゃけん)の教えについて書いてみたいと思います。「邪見」の「邪」は「心がねじ曲がっていること」、「見」は「ものの考え方」という意味です。こうした「間違った考え」を持つと、どのようになってしまうのでしょうか。

 

 誰かに意地悪をされたり、馬鹿にされたりすることを「邪慳(じゃけん)にされた」と言います。「邪見」と「邪慳」(邪険)は漢字は異なりますが、「思いやりがなくて無慈悲な行動」(邪慳)は、全て「間違った考え」(邪見)から引き起こされたものです。「邪見の角」「邪見の刃」という言い回しがあるように、邪見は物事を荒立て、刃のように危害を加えます。邪見の心は、他人を傷つけるのです。

 

 ただ、邪見の心はなかなか本人には見えません。相手に傷を負わせても、自分では正しいと思っている場合もあります。どこからが正しくて、どこからが邪(よこしま)な考えになるのかも曖昧な中で、何をお手本としたら良いのでしょうか。

 

 昔、天竺(インド)に、ある国王の妃がいらっしゃいました。慈悲の心が深くて、あらゆるものに哀れみの心を持ち、清らかな信心を保ち、仏・法・僧の三宝を敬っておられました。一方、国王は邪見な心の持ち主で、邪な考えをしていたために、いつも王妃を妬み憎んでいました。

 

 ある時、王は嫉妬心のあまりに、王妃に向けて弓を引きます。しかし、妃は少しも恨みに思わず、むしろますます慈悲の心を起こして、王の邪見と、来世で受ける苦しみに同情しました。すると、矢は向きを変えて、王の胸に刺さり、逆に死んでしまわれたのでした。

 

 世間の諺にも、

 

  握れる拳(こぶし)

  笑(え)める面(おもて)に当たらず。

(殴ってやろうと拳を握り締めても、笑顔には拳は当たらない)

 

と言います。憎む心がなく、打ち解けて笑って向かう人には、握り拳も開いて、わだかまりの心もなくなると言われます。

 

 だから、仏の道に入ろうとする人は、慈悲を心の習慣にして身につけなければなりません。応身(おうじん)の仏性(もとから私たちに備わっている仏様の心)が現れるかどうかは、ひとえに慈悲の心にかかっているのです。

             (『沙石集』)

 

 ここに登場する王と妃は、対照的な心柄でした。邪見な王は、日頃から憎しみに満ちた表情をし、対して、慈しみの心(慈悲心)を身につけていた妃は、心の底からの笑顔で人と接しています。これは邪見の林に迷い込まない、お手本となる言動と言えるでしょう。揺るぎない慈悲心によって、周りをも幸せにする妃の行いは、仏様そのものであったと考えられます。

 

  一切の悪業は、

  邪見を因と為す。

       (『涅槃経』)

(全ての悪い行いは、邪悪な心がもとである)

 

 1月は「睦月」とも呼ばれます。一説では、新年を迎えて人々が仲睦まじくするから名付けられたとか(『奥義抄』)。しんしんと降る穢れなき雪のように心を浄め、心温かな1年の第一歩を踏み出してみましょう。」

坊さんブログ、水茎の跡。

 

これを見て、

今邪見と思われる言葉を

いくつか挙げよう。

 

①人の不幸、命脈に関する邪見。

その人が明らかに不幸、命脈に関わる事に当たっている時に、それをザマアミロと思う。

人は先に死ぬ事によって、

恰もそれが敗北の様に思われる。

明らかな不幸や、

死に見舞われていると、

あいつもこれで終わりだなと囁き合う。

そして今まで思っていた嫉妬や、

今まで思っていた心中を披露する。

何故、もっと前に言わないのか?

何故、彼が元気な時に言わないのか?

僕の先輩のK氏、

僕のお客さんのS氏、

もまたそうゆう想いで人々に見送られた人だった。

特にS氏は癖が強く、

我が強い人であったから、

誰も逆らえない人であったから、

そう思った人は多いのではないか?

少なくとも僕がそれだった。

でも気がつけば彼が僕にとって、

初めての死体を見る故人になった。

 

これが邪見の邪見たる所以は、

人は誰もが死ぬのであって、

誰もが輪廻転成して人は皆兄弟であると言う事を、

皆が無視していると言う事である。

皆が無視したいと言う事である。

皆が確信が持てないと言う事である。

葬式は、

「さようなら、また逢いましょう」

À très bientôt.

と送る冪、

場所なのだ。

 

②人の成功を妬む邪見

人の失敗を喜ぶ邪見。

 

成功しても、

失敗しても、

妬む人がいる。

自分の事じゃないからだ。

それが自分の事である場合は、

人は安穏では居ない。

自分が幸福と不幸を握っている時は、

人は安穏では居ない。

 

③自分の幸福を他より比べて、

幸福であると安心する。

自分の不幸を他より比べて、

自分は不幸であると不安になる。

そして自分より更に不幸な人を探す。

人は他人との人間関係によってしか、

自分の幸不幸の評価が出来ない。

 

僕は以前某国で、

自分は誰よりも運の良い人間だと思っていた。

しかもそれは誰にも知られずに隠れていて、

運が良いと思っていた。

だが例のカミングアウトがあり、

j'ai décidé de faire

僕は誰よりも運の悪い人間だと知った。

車のガソリンが無くなっても誰も助けてくれず、

お腹が空いても世の中には、

ハンバーガーしか売っておらず、

それすらも食べるお金が無くなった。

頼るはモーのお客さんから貰った、

チップで食べる砂肝だった。

 

j'ai décidé de faire

普通それは1人の人間が、

社会に対してカミングアウトする事を言うが、

僕の場合社会が1人の個人に、

カミングアウトしたのだった。

社会は、

カミングアウト前は彼に我慢し不幸を覚え、

カミングアウト後は彼に対して幸福を覚えた。

そうゆう意味では、

僕と言う存在も役に立ったのではないか?

 

④他人を人は全くの他人であると思う。

人は人、私は私であると思う。

外国は、外国であると思う。

自己責任と言う考えも若干である。

 

人と自分は違うと人は言い、

人は矢鱈に自分と他人との違いを強調する。

🅰️さんはそうだったが自分は違う、と言う。

🅰️さんはそうするが自分ならこうすると言う。

僕は僕であり、

君は君であると言う。

これは非常に正しい。

でも敢えて違う様に振る舞う人が多いのも事実。

こうゆうのを天邪鬼と言う。

 

天邪鬼とは

仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王執金剛神に踏みつけられている悪鬼、また四天王の一である毘沙門天像のの腹部にある鬼面とも称されるが、これは鬼面の中国河伯かはく)という水鬼に由来するものであり、同じく中国の水鬼である海若(かいじゃく)が「あまのじゃく」と訓読されるので、日本古来の天邪鬼と習合され、足下の鬼類をも指して言うようになった。

〜中略〜

「人の心を見計らって悪戯をしかける子鬼」とされることから転じて、現代では「他者(多数派)の思想・言動に逆らうような言動をする"ひねくれ者""つむじ曲がり"」を指して、「あまのじゃく(な人)」と称されるようになった[8]。」ウィキペディア

 

天邪鬼、

或いはその逆もある。

この様な人は真実に暗い。

真実、

真理を見極めると言う人は、

他人と意見があったり違ったりして、

本来であればそれが本当だろう。

自己責任などと言って、

手軽に裁けるものではない。

人は皆どこかで血が繋がっており、

この世に全くの他人などいないからだ。

 

⑤俺を信じないのか?

家族を恫喝し真実を曲げる事。

それがネポチズム。

お前は他人の言う事を信じて、

血を分けた兄弟、

血を分けた家族、

血を分けた親子、

血を分けた夫婦の言う事を信じないのか?

もう一度言う。

時にあなたが他人と思う人が、

曇りなき眼で真実を見ていることがある。

時にあなたが他人と思う人が、

ネポチズムの出来ない事をやる。

ネポチズムは邪見の温床になりうる事もある。

 

続く

 

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