2025/4/20

十善戒 瞋恚②

 

「苦」の人生をいかに生きるか。

「仏陀(ブッダ)は確かに「この世は苦である」といいましたが、亡くなる前には「この世は美しい。人間の命は甘美なものだ。」といっていました。

これは「苦であるがゆえに、そこに美しいものが生まれてくる」という仏陀(ブッダ)のひとつの悟りであったように思われます。

涅槃へ至る八つの道筋を指し示した「八正道」煩悩を消して真実の人生を生きるための方法ということから出てきたのが、先にふれた四諦であり、また八正道といった考え方です。

仏陀(ブッダ)の亡くなったあと、原始仏教が大乗仏教から生まれた六波羅蜜という考え方も含めていいでしょう。

在家信者が守るべきものとされた五戒などもそうでしょう。

五戒とは

  • 不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物をみだりに殺してはならない。
  • 不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗みを犯してはならない。
  • 不邪淫戒(ふじゃいんかい) 道ならぬ邪淫を犯してはならない。
  • 不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはならない。
  • 不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではならない。

の五つですが、これらを生活の中で習慣化して実践することが大事だという具体的な戒律です。

また仏陀(ブッダ)は精神を統一して雑念を払い、禅定の境地に入ることを説き、さらに日常生活の中で身につけていく智慧の重要性を説いています

この戒律と精神統一と智慧を仏教では「戒・定・慧の三学」と呼んでいるようですが、修行によってこの三つを身につけることで人間は「諸々の汚れから完全に解脱する」ということになります。

 

参考

この五戒律に次の五つの戒律が加わったものを十戒律と呼んでいます。

 

十戒律(五戒律も含みます)

  • 不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい) 他人の過ちや罪を言いふらしてはならない。
  • 不自賛毀他戒(ふじさんきたかい) 自分を誉め、他人をくだしてはならない。
  • 不慳貪戒(ふけんどんかい) 物おしみしてはならない。
  • 不瞋(怒り)恚戒(ふしんにかい) 怒ってはならない。
  • 不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい) 仏様の教えや仏法伝道の僧をくだしてはならない。

このように、正しい生活をして自分自身の完成に努めなければ、本当に人を救うことはできないということです。

 

ただ、誤解してならないことは、自分はまだ完成していない人間だからとても人を助け導くことはできない、という考えを持たないことです。

 

自分だけの生活に囚われてしまえば、返って自己の完成はできないのです。

 

人のために尽くすということも持戒の大きな要点ですね。

人のために尽くすことによってそれだけ自分も向上し、自分が向上することによってそれだけ人にも尽くせるようになる、この二つは無限に循環していくと思います」

Copyright (C) 2011 仏陀の教え All Rights Reserved

 

①真言宗の十善戒の次は、

不瞋恚、

不邪見、

 

②「仏陀の教え」は、

不説四衆過罪、

不自賛毀他戒、

不慳貪戒、

不瞋(怒り)恚戒、

不謗三宝戒、

 

仏教において沙弥および沙弥尼(見習いの僧侶・小僧)の十善戒のもう一つもまた違う。

不著香華鬘不香塗身、

不歌舞倡妓不往観聴、

不坐高広大床、

不非時食、

不捉持生像金銀宝物

ただしこれについては単なる僕の興味である。

 

瞋恚

「瞋(しん、: dveṣa, pratigha: dosa)は、仏教における煩悩のひとつで、怒りを指す[1]瞋恚(しんに)ともいう。憎しみ[2]、嫌うこと、いかること[3]。心にかなわない対象に対する憎悪[2][4]自分の心と違うものに対して怒りにくむこと[5]

 

仏教においては、

 

定義

大乗阿毘達磨集論英語版(Abhidharma-samuccaya)では以下のように述べられている。

(pratigha)とは何か? それは苦、衆生、苦を備えた心への怒りを本質とし、安穏ならざる〔状態〕に住し、悪しき行い〔を為すこと〕の依り所たることを作用とする。

(何等為瞋?謂於有情苦及苦具心恚為体。不安隠住悪行所依為業。)

法相二巻抄における唯識大意では、 (自分)に背くことがあれば必ず怒るような、「自分がないがしろにされた」という思いと解釈している。」ウィキペディア

 

法相二巻抄における唯識大意では、 (自分)に背くことがあれば必ず怒るような、「自分がないがしろにされた」という思いと解釈している。」ウィキペディア

 

前回並べた瞋恚の中で、

恐らくその自分の思いを、

端的に表している言葉である。

段階を追って説明する。

 

❶何故某国に行ったのか?

 

某国が所謂、発展途上国であり、

初めての観光旅行としては、

物価が安く居心地が良いと言う様に、

先輩に推奨された。

 

❷行って実際どうだったのか?

 

確かに衣食住に置いて安く、

先輩に解説された以上の国であった。

物価が十分の一と言う物もあり、

僕の苦手な寒さも無く、

もしかしたらここは本当に、

「天使の都」かもしれないと思った。

 

❸何が問題で北部チェンマイに行ったのか?

 

確かに何もかも安かったが、

邪婬すら未経験の僕には、

24時間お金さえ払えば一緒に居てくれる、

春を鬻ぐ女性の費用は日々嵩んで行った。

春を鬻ぐ元家内のベンジャマスタサの金銭的要求は日々エスカレートして行った。

流石に旅費も心細くなって来たので、

先輩に言われて田舎に脱出した。

「天使の都」が日本の10分の一の物価ならば、

チェンマイは田舎は20分の一の物価だった。

ラーメンが一杯15円だったと記憶している。

 

1人でチェンマイに行ったのか?

 

確かに初回の旅は1人で行った。

だが、そこは邪婬の経験の少なさが祟り、

愛と会の違いが分からない勘違いが祟り、

チェンマイに居てもベンジャマスタサに会いたくて堪らなかった。

それで次の旅ではベンジャマスタサと一緒にチェンマイに行ったのである。

ベンジャマスタサも以前の店を辞め、

チェンマイに来ていた。

彼女はプレーと言うチェンマイの近くの県の出身でその頃はチェンマイのカラオケ店で働いていた。

僕は小さなアパートを1カ月借り、

そこで彼女と暮らした。

毎日、

ソムタムと言うサラダ、

ガイヤーンと言う鶏肉、

ネムと言う唐辛子入りソーセージと、

カノムチンと、

餅米と、

シンハビールと、

メコンと言うブランデーを、

食べて呑んで寝て過ごした。

 

❺チェンマイでの生活は分かったが、

それで一体どうしたのか?

 

僕はスーパーカブを1500バーツで借り、

夜のチェンマイを徘徊する癖がついた。

後部座席にベンジャマスタサを乗せ、

毎日毎日飽きもせず、

其れ程広い事は無いチェンマイの市街地を、

ただひたすらに徘徊した。

安い縫い目が直ぐに解れるTシャツには、

オピウム(opium)と書いてあり、

それにコークのプリントがされた、

おおきな短パンを履いていた。

今思えば僕達は何処に行きたかったのか?

何になりたかったのか?

その答えを見せてくれたのは、

ベンジャマスタサだった。

 

隣の県である彼女の実家に行ったのだ。

電気はトラックのピックアップのバッテリー、

充電するお金が無ければ蝋燭、

水道は田圃のど真ん中の井戸、

ガスなどある筈もなく、

テレビ📺は運が良ければ見えた。

当然車やオートバイ等ある筈も無い。

夜になれば真っ暗であった。

そして雨や風が降るスコールが来れば、

正にそれは修羅場である。

 

雲雷鼓掣電 

澍大雨

念彼観音力

応時得消散

 

あの地面に何本も突き刺さる豪雨は忘れられない。

あの豪雨に屋根が剥がれ、

あの豪雨にお互いを呼び合う、

ベンジャマスタサの家族が忘れられない。

この豪雨の中で亀に飲料水を溜めようとしていた、

ベンジャマスタサの家族が忘れられない。

そしてその豪雨の中でゆったりと何事も無く、

草を食む水牛が忘れられない。

こんなところにいたら、

何が心の便りだろう?

こんな家に生まれたら、

何が人生の目標になるだろう?

何が誰の所為で、

誰が何の所為なのか、

全く考えが思い付かない光景であった。

 

❻それで?それで?

 

そこから僕が連想したのは、

人間は平等だと言うことだ。

僕ら日本人は🇯🇵平等なのだから、

この人達も🇹🇭平等だと言う事だ。

そうゆう検討違いの怒りが、

そうゆう検討違いの人権主義が、

あのチェンマイの高級ホテルで爆発した。

 

あそこに何しに行ったのか覚えていない。

あの汚い格好で、

あそこに何しに行ったのか覚えていない。

あのオピウムのシャツで、

あの立派なフロントに何を頼みに行ったのか、

覚えていない。

ただ覚えているのは安く扱われた事だ。

ベンジャマスタサも一緒で、

彼女は最初からフロントに上がって来なかった。

僕はあそこで怒りをぶち撒け、

何に怒っているのかわからないほど怒っていた。

もし全ての原因があれだとしたらどうだろうか?

後で聞いたベンジャマスタサに聞いた事には、

あのホテルは皇太子のホテルだと言われた。

僕は、だからなんだと言った。

僕は、だからこうなったのだと後で思った。

僕は、人間は平等では無いと知り、(何十年後に)

ベンジャマスタサもまた、

その事をよく知っていた。

僕以外の全ての人間がその事を知り、

知らぬは僕だけだった。

それは仏様に聞けば、

以下の一言に現される真実だ。

僕は、

高慢で、

卑下慢で、

同等慢だった。

 

合掌

 

エゴの錯覚

「私は他より優れている」と感じることは高慢です。

「私は他と同等だ」と思うことは同等慢です。

「私は他より卑しい存在である」と思うことは卑下慢です。

慢とは、私のエゴの錯覚から起こるものです。

私は、エゴの錯覚がこころに現れないように、と精進します。

私は、慢により現れる対立・悩み・争いから離れるように、と精進します。」

宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会

 

00000

00000