2025/3/23
十善戒
「苦」の人生をいかに生きるか。
「仏陀(ブッダ)は確かに「この世は苦である」といいましたが、
これは「苦であるがゆえに、そこに美しいものが生まれてくる」
涅槃へ至る八つの道筋を指し示した「八正道」
仏陀(ブッダ)の亡くなったあと、
在家信者が守るべきものとされた五戒などもそうでしょう。
五戒とは
- 不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物をみだりに殺してはならない。
- 不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗みを犯してはならない。
- 不邪淫戒(ふじゃいんかい) 道ならぬ邪淫を犯してはならない。
- 不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはならない。
- 不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではならない。
の五つですが、
また仏陀(ブッダ)は精神を統一して雑念を払い、
この戒律と精神統一と智慧を仏教では「戒・定・慧の三学」
参考
この五戒律に次の五つの戒律が加わったものを十戒律と呼んでいま
十戒律(五戒律も含みます)
- 不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい) 他人の過ちや罪を言いふらしてはならない。
- 不自賛毀他戒(ふじさんきたかい) 自分を誉め、他人をくだしてはならない。
- 不慳貪戒(ふけんどんかい) 物おしみしてはならない。
- 不瞋(怒り)恚戒(ふしんにかい) 怒ってはならない。
- 不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい) 仏様の教えや仏法伝道の僧をくだしてはならない。
このように、正しい生活をして自分自身の完成に努めなければ、
ただ、誤解してならないことは、
自分だけの生活に囚われてしまえば、
人のために尽くすということも持戒の大きな要点ですね。
人のために尽くすことによってそれだけ自分も向上し、
Copyright (C) 2011 仏陀の教え All Rights Reserved
①真言宗の十善戒は、
不悪口、
不両舌、
不慳貪、
不瞋恚、
不邪見、
②「仏陀の教え」は、
不説四衆過罪、
不自賛毀他戒、
不慳貪戒、
不瞋(怒り)恚戒、
不謗三宝戒、
仏教において沙弥および沙弥尼(見習いの僧侶・小僧)
不著香華鬘不香塗身、
不歌舞倡妓不往観聴、
不坐高広大床、
不非時食、
不捉持生像金銀宝物。
ただしこれについては単なる僕の興味である。
前回は綺語について述べた。
今ひとつ歯切れが悪かった。
今回は悪口だ。
「腹を立てて損するのは自分、怒らないことが一番、賢明な道です
お釈迦様は、智慧あるものに怒りなしと言われています。
ここでは知恵ではなく「智慧」と書きます。
智慧とは、先を見通す力のことです。
確かに、短気は損気というように、カッと腹を立てて、
カッと腹を立てると、血圧も上がりますし、
冷静さを失い、まともな判断ができなくなってしまいます。
智慧ある人は、腹が立ちそうになると、先のことを考えて、
罵詈雑言(悪口)を浴びせられたお釈迦樣はどうされたのか?
お釈迦様とある若者とのやり取りにこんな話があります。
「おまえは、祝日に、肉親や親類の人たちを、招待し、
「そりゃ、あるさ」
「親族がそのとき、
「食わなければ、残るだけさ」
「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、
「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」
「いや、そういうのは与えたとは言えない」
「それなら、どういうのを受けとったといい、
「ののしられたとき、ののしり返し、怒りには怒りで報い、
「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」
釈尊は、おごそかに、偈(うた)で答えられた。
「智恵ある者に怒りなし。よし吹く風荒くとも、
外道の若者は、落涙平伏し帰順したといわれます。
お釈迦様のようなどんな悪口批難に対しても超然とした態度を取る
「売り言葉に買い言葉」といわれますが、
意地や我執でもう後には引けない、そういう状態になると、
そんな時、「怒りに怒りをもって報いるは、
日ごろから自覚していれば、
© 仏教辞典. All Rights Reserved.
「悪口(わるくち、わるぐち)とは、他人のことを悪くいうこと、
これら悪口のイメージは、
悪態アッコウを吐く人だけをイメージしている。
だが僕のイメージは、
アッコウと言うより、
ワルグチだ。
ワルグチと言うのは悪口(アッコウ)程表面化しない。
ワルグチと言うのは、
ワルグチを言う者の自制心が強く、
深く水面下に潜り蓄積される。
むしろアッコウの方が発散されやすい、
と言うイメージは無いか?
アッコウとワルグチは明確に分ける冪では無いか?
アッコウ悪態はむしろ分かりやすく、
ワルグチ悪口はむしろ根が深いと言う事は無いか?
僕と僕の亡父にを見ればアッコウとワルグチの、
違いは明快である。
僕の少年時代、
DVの父の暴力は口なり手なりで酷かった。
その為父の居ない日は、
父に関する母とのワルグチ発表会に華が咲いた。
父は都立高校の国語教師だったので研究日と言う物があり、
家にいる日の方が居ない日より多かった。
その短い不在の隙に僕と母はワルグチに興じた。
母は無類の皮肉屋で、僕は彼女のワルグチを楽しんだ。
母はその類い稀無き皮肉の才能を披露した。
だがあくまでも母は父の妻であった。
このワルグチのヒミツを何かの機会に、
このワルグチのヒミツを何かの父との喧嘩の折に、
父へのアッコウのネタとして使った物だからたまらない。
曰く、
「あなたは我儘である。」
「あなたは口が臭い。」
「あなたは鼾がうるさい。」
「あなたは自分の物しか買わない。」
「あなたは電話が長い。」
そして極め付けが次の言葉である。
「あなたの息子もそう言っている。」と。
全てのアッコウの引用にこの僕を使ったのだ。
僕のワルグチは父の前に引き出され、
恰も僕がワルグチの張本人になったのだ。
恰も僕がアッコウの張本人になったのだ。
父は怒った。
僕を殴り、
僕を床に寝かせて、
僕の顔を踏みつけてこう言った。
「坊主?お前は父のアッコウを言ったのか?」と。
母は多分この引用に於けるインパクトを、
期待したに違いない。
母は多分この引用に於いて父のDVが、
和らぐのを期待したに違いない。
しかしそれは大変な間違いだった。
父のDVはボリュームをまし、
僕は父の顔を正視することすら出来なかった。
アッコウとワルグチは正に、
僕にとって別物である。
今社会人になって感じるのは、
今の世の中はアッコウよりもワルグチだ。
人前でアッコウを披露する人は、
僕にとってこの施設の認知のおじいさんだけだ。
今の社会は各人が夫々に
各人が其々の不満を持って、
ワルグチとして隠し持つ。
表向きは何事も無い様に付き合い、
ある沸点を超えると突然アッコウを吐く。
そしてもうその頃には取り返しの付かない事になっている。
ワルグチは何度も何度も心の中で反復されて、
いつかアッコウになって日の目を見る。
僕にとってアッコウとワルグチは別物だ。
このワルグチとアッコウの区別をはっきりしているサイトはついに
仏様にはこの事が聞きたくてたまらないが、
両舌など他の戒にあるかもしれないので、
まずは僕の悪口感はこうなのだと説明させて頂く。
親子はその事件の10年後、
体力的に逆転し、
息子は父をハイキック、
ローキックで倒した。
正にワルグチのアッコウに対する勝利であった。
この事は別の投稿に詳しい。
だが勝利した僕はその後ある国で、
王様或いは王室の誰かに、
その身分を弁えぬ傍若無人のアッコウを浴びせ、
遂に25年の後、
悪口の断罪を7000万人の国民から浴びせられ、
国外追放になった事は、
別の投稿に詳しい。
合掌
00000
00000