2025/2/23

十善戒

④不妄語⑶場合分け

 

「苦」の人生をいかに生きるか。

「仏陀(ブッダ)は確かに「この世は苦である」といいましたが、亡くなる前には「この世は美しい。人間の命は甘美なものだ。」といっていました。

これは「苦であるがゆえに、そこに美しいものが生まれてくる」という仏陀(ブッダ)のひとつの悟りであったように思われます。

涅槃へ至る八つの道筋を指し示した「八正道」煩悩を消して真実の人生を生きるための方法ということから出てきたのが、先にふれた四諦であり、また八正道といった考え方です。

仏陀(ブッダ)の亡くなったあと、原始仏教が大乗仏教から生まれた六波羅蜜という考え方も含めていいでしょう。

在家信者が守るべきものとされた五戒などもそうでしょう。

五戒とは

  • 不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物をみだりに殺してはならない。
  • 不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗みを犯してはならない。
  • 不邪淫戒(ふじゃいんかい) 道ならぬ邪淫を犯してはならない。
  • 不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはならない。
  • 不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではならない。

の五つですが、これらを生活の中で習慣化して実践することが大事だという具体的な戒律です。

また仏陀(ブッダ)は精神を統一して雑念を払い、禅定の境地に入ることを説き、さらに日常生活の中で身につけていく智慧の重要性を説いています

この戒律と精神統一と智慧を仏教では「戒・定・慧の三学」と呼んでいるようですが、修行によってこの三つを身につけることで人間は「諸々の汚れから完全に解脱する」ということになります。

 

参考

この五戒律に次の五つの戒律が加わったものを十戒律と呼んでいます。

 

十戒律(五戒律も含みます)

  • 不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい) 他人の過ちや罪を言いふらしてはならない。
  • 不自賛毀他戒(ふじさんきたかい) 自分を誉め、他人をくだしてはならない。
  • 不慳貪戒(ふけんどんかい) 物おしみしてはならない。
  • 不瞋(怒り)恚戒(ふしんにかい) 怒ってはならない。
  • 不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい) 仏様の教えや仏法伝道の僧をくだしてはならない。

このように、正しい生活をして自分自身の完成に努めなければ、本当に人を救うことはできないということです。

 

ただ、誤解してならないことは、自分はまだ完成していない人間だからとても人を助け導くことはできない、という考えを持たないことです。

 

自分だけの生活に囚われてしまえば、返って自己の完成はできないのです。

 

人のために尽くすということも持戒の大きな要点ですね。

人のために尽くすことによってそれだけ自分も向上し、自分が向上することによってそれだけ人にも尽くせるようになる、この二つは無限に循環していくと思います」

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  • 不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはならない。

 

嘘、妄語と言う物を分類してみた。

①自身が自身の為につく嘘。

つまりはアウグスティヌスの嘘である。

 

AがBにqだといった。

Aはqが偽であると認識している。

Aはqが真であるということにより、Bをだましてqが真であると思わせようと意図した。

以上3項目を満たしたとき。

—アウグスティヌス、『De Mendacio』ならびに『Contra Mendacium』、[3] [4]

ウィキペディア

 

アウグスティヌスの定義は、

この定義に全ての嘘が当てはまる予定だろうか?

僕はこの定義にはどうしても、

嵌らない嘘がある様に思えてならない。

特にこの度のカミングアウトは、

様々な形での嘘があり、

個々人の様々な意図があった筈だ。

であるからそれを場合分けして考えて見たい。

 

②ピノキオの鼻

だがその前に、

ついこの間発生した「ピノキオの鼻🤥」事件に触れたい。

自分の居る施設も含めこの認知の時代には、

避けて通れない問題だからだ。

ピノキオ事件については木曜日の投稿を見て欲しい。➡︎参照

 

僕が寝ている丑三つ時、

ピノキオは隣の自分の病室から、

僕の病室に忍び込み、

ジーっと僕の顔を眺めていた。

一体どのくらい眺めていたのかはわからない。

目が覚めた僕はピノキオに驚き、

目が覚めた僕はピノキオに質問した。

「君はそこで何をしているのか?」

彼はその回答として僕と同じ質問を僕にした。

「君はそこで何をしているのか?」

ただしその質問には、

もう一つ耳慣れぬ粗野なフレーズが付け足されていた。

「俺の家でおめえは何をしているのか?」

彼は認知の為、本気でこの質問を発している様だった。

「俺の家でおめえは何をしているのか?」

 

皆さんは言うかもしれない。

認知の事件など考慮したらキリがないと。

でもピノキオは極端な例かも知れないが、

認知か認知でないかについて、

あなたは何処に線を引いているか?

彼は自分の言っている事を妄語と思っていない。

彼は自分の言っている事を真実だと思っている。

そんな事はこの高齢化社会日本では、

何処へ行ってもあることで、

いや高齢化社会に限らず、

何処へ行ってもあることで、

この施設に於いては顕著如実である。

ここに来たお年寄りは最初のうち周りから様子を見られて、

認知の程度を測られる。

例えば最初は一応まともに見えた人も、

時が過ぎるに連れ本性を見せる。

逆に最初のうちは全く認知の症状が酷いお年寄りが、

時が過ぎるに連れ認知から醒める。

まるで夢でも見たかの様に。

それで納得が行ったのが、

ここの職員が自分から患者に挨拶をしない事だ。

あれは相手を見下しているのでは無い。

患者1人1人の様子を観察しているのだ。

 

かようにも人は何を持って認知とするか?

かようにも人は何を持ってまともとするか?

かようにも人の正気と言うのはあまりにも心細い。

これこそが現在認知された人間の社会である。

 

ピノキオは嘘をついたらその鼻が伸びると言う。

でも彼は全く鼻が伸びない埼玉のピノキオだった。

この世は斯様の如くお互いが、

疑念を持って付き合っている社会だ。

認知、

コロナ、

インフルエンザ(毒感)、

政治家の献金とキックバック、

言葉ひとつで断定する事の出来ない社会だ。

それは高齢者に限らない。

 

まずこの点に留意して、

次回カミングアウトの懺悔を行う。

 

合掌

 

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