2025/2/16

十善戒

④不妄語⑵皆

 

「苦」の人生をいかに生きるか。

「仏陀(ブッダ)は確かに「この世は苦である」といいましたが、亡くなる前には「この世は美しい。人間の命は甘美なものだ。」といっていました。

これは「苦であるがゆえに、そこに美しいものが生まれてくる」という仏陀(ブッダ)のひとつの悟りであったように思われます。

涅槃へ至る八つの道筋を指し示した「八正道」煩悩を消して真実の人生を生きるための方法ということから出てきたのが、先にふれた四諦であり、また八正道といった考え方です。

仏陀(ブッダ)の亡くなったあと、原始仏教が大乗仏教から生まれた六波羅蜜という考え方も含めていいでしょう。

在家信者が守るべきものとされた五戒などもそうでしょう。

五戒とは

  • 不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物をみだりに殺してはならない。
  • 不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗みを犯してはならない。
  • 不邪淫戒(ふじゃいんかい) 道ならぬ邪淫を犯してはならない。
  • 不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはならない。
  • 不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではならない。

の五つですが、これらを生活の中で習慣化して実践することが大事だという具体的な戒律です。

また仏陀(ブッダ)は精神を統一して雑念を払い、禅定の境地に入ることを説き、さらに日常生活の中で身につけていく智慧の重要性を説いています

この戒律と精神統一と智慧を仏教では「戒・定・慧の三学」と呼んでいるようですが、修行によってこの三つを身につけることで人間は「諸々の汚れから完全に解脱する」ということになります。

 

参考

この五戒律に次の五つの戒律が加わったものを十戒律と呼んでいます。

 

十戒律(五戒律も含みます)

  • 不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい) 他人の過ちや罪を言いふらしてはならない。
  • 不自賛毀他戒(ふじさんきたかい) 自分を誉め、他人をくだしてはならない。
  • 不慳貪戒(ふけんどんかい) 物おしみしてはならない。
  • 不瞋(怒り)恚戒(ふしんにかい) 怒ってはならない。
  • 不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい) 仏様の教えや仏法伝道の僧をくだしてはならない。

このように、正しい生活をして自分自身の完成に努めなければ、本当に人を救うことはできないということです。

 

ただ、誤解してならないことは、自分はまだ完成していない人間だからとても人を助け導くことはできない、という考えを持たないことです。

 

自分だけの生活に囚われてしまえば、返って自己の完成はできないのです。

 

人のために尽くすということも持戒の大きな要点ですね。

人のために尽くすことによってそれだけ自分も向上し、自分が向上することによってそれだけ人にも尽くせるようになる、この二つは無限に循環していくと思います」

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  • 不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはならない。

 

さて、

前回の嘘は僕の人生で最大の嘘である。

これ以上の嘘として、

家内についた邪婬の嘘があるが、

それは彼等が全てお見通しの上で、

僕がついた嘘なのであって、

嘘でありながら嘘が成立しない、

と言う考えはどうだろう。

この嘘については今回は言及しない。

あなたはこう言うだろう。

人を攻撃する前に自らの反省をしろと。

それを承知で今回は、

カミングアウトの分析をしたい。

 

まず基本的な確認をしたい。

カミングアウト前の、

日々の営みの中で行われた事は、

時系列の中に真実のみが存在し、

時系列の中に真実のみが記録され、

時系列の中に真実のみが行われ、

それを我々は共有している。

嘘とはその真実を取り巻いている、

夫々の心の中にある。

その向いている方向、

強弱、

高低、

方角、

は夫々の心の中で違ってはいるものの、

これは僕の想像に過ぎないが、

方便として嘘を共有しようと言う意思があり、

この不敬罪のカミングアウトに関わった者達の、

共通の認識があった。

僕が死ぬまでこの共通の認識が、

存在すると認識する。

あるいはカミングアウトに関わった者の、

嘘の重要な点は国家と言う幻が操っていた事だ。

嘘は時系列の中に真実であり得ず、

決して真実ではないと言う事である。

だから嘘も方便はあり得ない。

方便もまた真実であり、

何処かに破綻を抱えている。

上座部仏教であればこの認識は、

大乗仏教よりも更に厳粛な教えの筈である。

もしも戒めを守らず行われる嘘は、

特に上座部仏教に置いては、

敬虔な仏教徒であるならば、

あり得ないと認識する。

 

方便

「人を救うため、人を傷つけないためにつく嘘もある。仏教では「人に矛盾したことを吹き込み争いを煽ること」は「両舌」(嘘つきの別名である二枚舌の語源)という十悪の罪になるが、人を救うため、人を悟りへと導くために当面の嘘をつく、という方法もとられることがある。大乗仏教国である日本では「嘘も方便」ということわざもあり、人を救うためということならばおおらかに許そうとすることがある。」ウィキペディア

 

このウィキペディアの文章を見ると、

上座部仏教に置いては方便は許されず、

大乗仏教に置いては方便は当面の嘘である。

つまり僕に下された不敬罪の断罪は、

どこかで僕に説明すべき物?である。

嘘をついてはならないと、

はっきりと書いてありながら、

敬虔な上座部仏教の某国が、

国王から国民まで破戒に勤しむのはどうか?

超法規の破戒行為は、

何をもって担保されるべきものか?

あるいは仏教とは関係の無い超法規次元が、

この某国にはあるのか?

この国の僧侶は自戒に厳しく、

間違っても女性に触れる事は無い。

妄語についても戒である点は同様だ。

そもそも、

「嘘も方便」の、

主語は何なのか?

検索するとそれは「仏教用語」としか書いておらず、

恰もその嘘と言う動詞の主語はない。

仏様も、

菩薩も、

明王も、

天部の神様も、

僧侶も、

そして数多の衆生も、

誰でも方便の主語になりうる様に思える。

でもそんな事は僕の道た資料では、

何処にも載っていない。

だから仏教徒として、

不妄語戒は厳粛に守られるべき戒めである。

単純明快に嘘をついてはいけないのだ。

特に日本語に置いては主語を省かれる場合が多く、

気がつけばとんでもない方角に人をエラーする。

もう一度言う。

仏教徒として嘘は、

方便だろうが、

人情だろうが、

戒として認められない。

 

王様や、

王国のプライドを、

僕がどこまで傷つけたのか知らない。

でもだからと言って今から生まれる子供にまで、

妄語の罪を背負わさせるのは何故か?

それほどの罪とは何なのか?

それすら僕に知らせず、

それすら僕に弁明させず、

ただただ僕の居なくなるのを待っている。

この事は仏教とは無関係では無いのか?

王国を汚した僕が、

この国で起こった全ての事を、

嘘だと感じる事が重要なのだろうか?

次回はこの方便に関わった者達を分析したい。

 

合掌

 
 
 
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