2025/01/5
【一切皆苦】
【諸行無常】
【諸法無我】
【涅槃寂静】
無常とは
「無常とは無常とは虚無ではなく、物事が成長するプラスの面を見ること四苦八苦は人間が生きていくうえで付いてまわるとブッダはいいました。
そしてさらに「無常に基づく苦」があると。
無常というと日本人は『平家物語』の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」を思い出します。
「人生の短いことをはかなむ」といった意味でとられがちですが、仏教の経典に出てくる「無常」は少し意味が違うようです。
無常というのはブッダの教えそのものですけれど、日本では今、非常にセンチメンタルでマイナス的なものとして、とらえられていました。
これは無常を感情や情緒として感受するためです。
感情的にとらえると、どうしても虚無的になりやすいのですが、それはいうなれば「無常感」といったものです。
ブッダの説く無常はそうではなくて「無常観」。
すべて存在するものは絶えず移り変わっていると観察する人生観であり世界観です。
経典では、人間が「生あるものは必ず死ぬ」という赤裸々な事実や現実をそのまま受け入れたとき、そこにある種の深い感動が生まれ、そこから感嘆がわき出てきます。
それが「無常」だといっています。
つまり、「無常に基づく苦」というのは「生あるものは必ず死ぬ」という事実そのものを指しているといっていいでしょうか。
その事実を受け入れて、なおかつ前向きに生きていこうということでしょう。
ブッダが成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。
この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)と「相続無常」の二つの説明の仕方がある。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅すると言う姿を指し、相続無常とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程の姿を見る場合を指して言うと、説明されている。
この無常については、「諸行無常」として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方であるとされている。
なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。これを常楽我浄と言うが、これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
無常観
今回の引用は長かった。
この日本人の無常感と、
ブッダの無常観とは、
どう違うのだろう?
ここが僕が仏教に期待する、
大きな理由でもある。
「観」とは何か?
それは自分の「感」を徹底的に廃した、
自分自身の観察である。
自分自身の観察とは、
自分自身の観察において、
誰よりも詳細な観察である。
自分自身の観察において、
自分に優る者はおらず、
自分自身の観察において、
自分に劣る者も居ない。
自分自身の観察において、
自分より冷静に自分を見れる者はおらず、
自分自身の観察において、
誰よりも仔細に自分を観察出来る者は居ない。
また自分自身の観察において、
誰よりも取り乱す者は居ない。
この自分の観察日記は、
正に自分に向かってだけは嘘が書けない。
どんなに偉い学者でも、
どんなに偉い政治家でも、
どんなに偉大な宗教家でも、
あなたの観察日記に於いて、
あなたに優る人は無い。
あなたの時間は、
一分足りともあなたが知っていて、
あなたの時間は、
人生の終始に於いて、
あなたが全て知っている。
あなたが寝てようが、
あなたが起きてようが、
あなたが夢を見ていようが、
あなたが気を失っていようが、
あなたの観察日記は詳細である。
人は何故自分を観察することから始め無いのか?
ヴィパッサナー瞑想とは
「ヴィパッサナー瞑想(ヴィパッサナーめいそう、巴: vipassanā-bhāvanā)は、ナーマ(こころのはたらき、漢訳: 名〔みょう〕)とルーパ(物質、漢訳: 色〔しき〕)を観察することによって、仏教において真理とされる無常・苦・無我を洞察する瞑想(バーヴァナー)である[1]。アメリカでは仏教色を排した実践もあり、インサイトメディテーションとも呼ばれる[2][3]。ヴィパッサナー(巴: vipassanā[注釈 1], ウィパッサナーとも[4])は「観察する」を意味する[5]。また、ヴィパッサナー(巴: vi-passanā)とは「分けて観る」、「物事をあるがままに見る」という意味である」ウィキペディア
無常感に囚われた人には、
自分を冷静に見ることが出来ない。
今、始めようとしている段階であるが、
身体のあらゆる動きに始まり、
ティッシュ1枚、
引き出し開閉、
立ち上がり、
関節の軋む音、
それらは全て、
全てを自らに実況中継することは、
僕にとって僕が居なければ、
起きない事象であって、
他人にこの観察を任す事は出来ない。
これらは昔から人々に、
口酸っぱく言われた事であるが、
細かい事をウジウジと、
小さい事をダラダラと、
神経質にもほどがある、
堂々としていろ、
鬱病じゃあ無いのか?
人の言う事など気にするな!
と揶揄された事であるが、
これらは障害者になった今、
一つ一つがズシリと、
否定形、
完了系になってのしかかる。
少しでも人生のディテールに拘りたい。
僕は子供の頃から、
優れた人間とは何かを、
口説いくらい教えられたが、
優れた人間とは何かを、
ナポレオン、
ベートーベン、
芥川龍之介、
を例に教えられたが、
先ずは何よりも自分を、
観察することを終ぞ教えてもらえなかった。
そんな事を言おう者なら、
自己中心的で、
井の中の蛙大海を知らずと叱られ、
集中して勉強しろと言われた。
そうその集中を自分に向ける事を、
教えて貰いたかった。
この世界は君が主役で、
全ての人間、
或いは全ての生き物にとっても、
主役である事は一緒なのだ…と。
ヴィパッサナー瞑想
「比丘たちよ、この道は、もろもろの生けるものが清まり、愁いと悲しみを乗り越え、 苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目のあたり見るための唯一の方法です。
ヴィパッサナー(VIPASSANĀ)は、お釈迦さまが、我々に確実に悟りを体験できるように教えられた実践方法(修習,瞑想)です。二五〇〇年もの歴史を通じて、テーラワーダ仏教(上座仏教)の長老たちによって守られ、今日まで連綿と伝えられてきた、誰にでも簡単に実践できる、とても合理的な「こころを育てる」方法です。みるみるうちに心が成長していく過程を、ぜひご自分で試してみてください。
本来の『仏教』とは、自ら覚醒するための実践法なのです。」
宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会
00000
00000