2024/12/22
【一切皆苦】
【諸行無常】
【諸法無我】
【涅槃寂静】
に至るまで。
ではこれからは、
ブッダが、
出家し、
苦行をし、
それが無駄な行いだと気づき、
悟りを開いて、
周りの友人、
神様に聞かせたところから見てみたい。
このサイトを見てくれば、
僕のサイトなど見るに足らないが、
僕なりに不明で、
僕なりに分かった事を記述させて頂きます。
なお一部は独自に作ったプレゼンを付け添える。
【初転法輪】
仏陀(ブッダ)はブッダガヤーで一人坐禅をして、
【無師独覚】
「Sabbābhibhu sabbavidu’hamasmi Sabbesu dhammesu anūpalitto,
Sabbañjaho taṇhakkhaye vimutto Sayaṃ abhiññāya kamuddiseyyaṃ.
我は一切勝者にして一切知者なり 一切諸法の爲に染せらる丶ことなり
一切を捨離し渇愛盡きて解脱せり 自ら證知したれば誰をか(師と)稱すべき
私はすべてのものに打ち勝ち、すべてのことを知った。
すべてを捨てて、渇愛を滅尽し、解脱に達した。
自らで覚ったため、誰を師匠として仰ぐべきであろうか(無師独覚
— 大犍度[6], 南伝大蔵経」ウィキペディア
どれが本当のブッダの純粋な教えか、
今となっては分からないが、
その教えの特長は中道である。
人によっては優柔不断(失礼)であると、
言われ兼ねない教えかもしれないが、
僕にとって真理とは白黒を付けない事である。
白黒を付ける勇気が無いのならば、
「人を導こうとは考えるな」と言われそうだが、
人は白黒を付ける事によって楽をする。
人は白黒のどちらかに靡く事によって、
進化、進歩、精 進を忘れる。
人は白黒のどちらかに靡く事によって、
群れ、集う。
自分ほど自分の汚れ穢れを知っている者はおらず、
自分ほど自分の弱点を知っている者は居ない。
だからこそ自分自信への不断の反芻こそが、
中道の根本かと思われる。
だからこそ自分自信への観察こそが、
中道の根本かと思われる。
「真理の言葉」に記述されている様に、
1人孤独に林に入り、
ただ真理を追い求める道こそが、
結局は自分に厳しく
結局は真実にシビアで、
結局は1人のギャラリーも無く、
言葉をも離れた、
他人の表現をも離れた、
真理ではないかと思う。
その様な生き方の、
パイヲニアこそが、
ブッダであった。
と僕は思う。
その生き方を保つ為に、
出家があり、
決してブッダは群れるつもりは無かったが、
あまりにもその教えを請う人がいる物だから、
教団が必要だったのでは無いか。
仏教教団
「彼らは釈迦と共に初期仏教教団を創設し[1]、
中道
Katamā ca sā bhikkhave, majjhimā paṭipadā tathāgatena abhisambuddhā cakkhukaraṇi ñāṇakaraṇī upasamāya abhīññāya sambodhāya nibbāṇāya saṃvattīti? Ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathīdaṃ: sammādiṭṭhi, sammāsaṅkappo, sammāvācā, sammākammanto, sammāājivo sammāvāyāmo, sammāsati, sammāsamādhi, ayaṃ kho sā bhikkhave, majjhimā paṭipadā tathāgatena abisambuddhā cakkhukaraṇi ñāṇakaraṇī upasamāya abhīññāya sambodhāya nibbaṇāya saṃvattati. "
比丘等よ、世に二邊あり、出家者は親近すべからず。
一に諸欲に愛欲貧著を事とするは下劣、
二に自ら煩苦を事とするは苦にして賢聖に非ず、無義相應なり。
此、眼を生じ、智を生じ、寂静、證智、等覺、涅槃に資するなり。
比丘たちよ、世の中には二つの極端がある。
一つめは、欲と愛欲や貪欲をよしとすることで、
二つめは、自分に苦難を味わわせることは、苦痛であり、
比丘たちよ、如来はこの二つの極端を捨て、中道を認知したのであ
それこそが、観る眼を生じ、英知を得、證智をもち、定(
— 大犍度 , 南伝大蔵経」
自分を甘やかす事は快楽主義で、
自分に厳しくする事は苦行主義である。
苦行の何処が悪いのだとあなたは言うであろう。
そのどちらもそれ自体が目的で、
本来の目的を逸脱していると言う事だろう。
苦行を辞めてどうしたら人は、
努力、精進出来るのだろう?
悟りの瞑想の次の一節を持って、
僕は「これぞブッダの教えだ」と理解した。
エゴの錯覚
「私は他より優れている」と感じることは高慢です。
「私は他と同等だ」と思うことは同等慢です。
「私は他より卑しい存在である」と思うことは卑下慢です。
慢とは、私のエゴの錯覚から起こるものです。
私は、エゴの錯覚がこころに現れないように、と精進します。
私は、慢により現れる対立・悩み・争いから離れるように、
宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会
詰まり、
ブッダは、
両極端を否定し、
更に中道と思われる考えすら、
錯覚として同等慢と断じた。
これこそがブッダの最高の教えである。
これこそが無の境地であるかどうかは、
次節を読みたい。
僕のいた某国では、
自分を見失い心乱れる人に、
「ナンサマッチ」をする様に言う。
落ち着かない人に兎に角座れと言う意味で、
「ナンサマッチ」をする様に言う。
ナンは座ると言う意味だが、
サマッチは上述のサマーディの事だろうか?
「それこそが、観る眼を生じ、英知を得、證智をもち、定(
合掌
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